黄金の埋蔵(稲宿)
字塔の奥に塔があり、近くにみつばうつぎ(菩提樹)がある。この木の根もとに黄金千枚が埋めてあると伝え、「金が欲しけりゃ稲宿へござれみつばうつぎの根にござる」という俗謡が残っている。また本馬山(本馬)に「金ほしくはホホマの丘に来い、三葉うつぎの木に小判千両」、
さらに金剛山中腹の朝原寺跡には「朝日夕日照る三つ葉うつぎの木の下に、小判千両、のちの世のため」という俗謡がある。
伏見山菩提寺(本尊は十一面観音)仁王門の仁王さんは井戸と火事を恐れるといわれている。この村では四十軒もあっても井戸は1つしかない。正月のとんども、この村だけは行わない。この仁王さんの股の下をくぐると体が丈夫になるといい伝えている。
天得さん祭り(吐田)
昔、十河行光という武士が葛城の山ふもとに住んでいた。金剛山へ狩りにゆき、「日の石」という大石に腰掛けて休んだ。ところが夢の中に天得如来の姿を眼のあたりに拝した。帰ってすぐ、その通りの姿を描いて仏門に入った。画像は極楽寺に奉納した。今でも「天得さん祭り」という行事がある。
産湯の井(茅原)
役行者は茅原寺で生まれたといい、その産湯の井戸が境内にある。行者が生まれる時、一童子があらわれ、大峯の瀑水をくんで行者の体を洗い流した。その水が地に落ちてたまったものだともいう。俗に産湯の井、またはあか井とよんでいる。
行者路(筋かい途)
茅原村より金剛山高天の森に至る小路をいう。昔、役行者小角が朝夕高天の森で修行するため往復した道であるという。途中行者道の不便なため、時の領主越知氏の許可を得て始めてこれを修築したもので、その許可証は今も茅原山吉祥草寺中の坊に保存されている。
笠堂(茅原)
むかし、大暴風雨で田植えが出来なかった時、役行者がここを通り自ら田の中に入って田植えをした。すると不思議にも雨風はやんだ、その時行者の笠をぬいだ所に地蔵尊を安置したのが今の笠堂だという。また戦国時代に笠堂の修復があった。その出来あがりの日に世話人が供物を村衆に分った。その時一人の見慣れぬ巡礼者が交じっていた。それはあとで明智光秀の娘であったと分かった。
たらいの森(玉手)
村の西北にある。役行者が茅原寺で生まれたとき、産湯に使用したたらいを埋めた所という。
杓の森(玉手)
村の西入り口の老ナツメが生えている土壇がある。役行者誕生の時に産湯を汲んだ木杓(しゃく)を埋めた所といわれる。
よな塚(南十三)
行者が生まれたとき、よなを埋めた所であるという。
ほんがらの宮(柏原)
ほほ間神社はほんがらの宮ともいう。曽我川から流れてきたのを祭ったのだといわれる。神武天皇がヒメタタライスズ姫を入れて正妃とされたので、前后吾平津姫は柏原のこの宮でわび住まいされたと言い伝えられている。そのために今でも嫁入りの行列はこの前を遠慮して通らない。もし通ると不縁になるといい、祠に幕を張るのである。南側に嫁入り道というのがある。
鑵子塚(柏原)
永田池の西南にある、俗にひょうたん山という。日本武尊が伊勢の国の能褒野にて崩じたまう時、白鳥と化して大和をさして飛んだ。その白鳥陵だという。むかし、この山から琴の音や笛の音が聞こえたといわれる。
縛り地蔵(玉手)
字上寺(うえんじ)の薮の中にある。石仏は地上に露出している。この地蔵さんを縄でしばると歯痛やテンカンが治るという。
城山の白狐(玉手)
昔、殿様に愛せられていた「およし」という白狐が、城山の西にすんでいた。この狐が殿様の家来の一人の悪者がかけた鼠の油揚げを餌にしたワナにかかって殺された。その狐を埋めた狐塚がある。
放光現瑞の石仏(玉手)
満願寺にある。昔、この寺の繁誉上人が、円光大師御忌の法要をすました。その晩のこと空から音楽入りで光を放って石仏が下りてきた。このことが本山の知恩院に聞こえ、放光現瑞の石仏という名をもらった。立派な光背がある。厨子は当時の藩主桑山下野守が寄付されたものと伝えられている。
敦盛姿見の井戸(鴨神)
吹薮という所に生えた二股の竹で、平敦盛の持っていた青葉の笛を作ったという。敦盛はこの薮の中にあった井戸で姿をうつされたという。
汁かけ祭(蛇穴)
昔、ここに長者がいた。その長者に一人の娘があった。その娘が毎日ここを通って葛城山へ修行にゆく”役の行者”というものに恋をしたが、行者は振り向きもしなかった。娘は蛇身に化けて毎日あとを追うた。野良に弁当を運ぶ村人たちはビックリして味噌汁を蛇にブッかけてにげた。蛇は穴にかくれた。それから娘の供養にと野口大明神とあがめ、祭典には汁かけ行事を行うのだという。それから市部村を蛇穴(さらぎ)村と改めたという。
茅原のトンド(茅原)
昔、役行者が大峯山へ詣ろうとしてここまで来られた。すると道も埋もれるほど大きな茅が一面に生えていて、向こうへ進まれなかったので、行者は困り果て、茅を焼きはらわれた。それからここで、年一回大トンドをするようになった。トンドをしないと村に火災が起こるといわれている。
ハッチョはん(東寺田)
八幡神社の東近く民家の中にある。ここに数本の椿の木があって神木とされている。シメ縄がはってあり、前に石灯篭が立っている。椿の花や葉を取ると顔がはれるというので、昔から誰も触らない。ハッチョはんは八王子さんのことであろう。
天下塚(東寺田)
満願寺川を隔てた庚申山の東ふもとの田圃の中、字天下辻にある。全面に芝生のある方墳である。古代の人の甲冑を埋めたところと伝えられている。昔から真夜中に、このあたりを歩くと嬰児の泣き声が聞こえるという。また草を刈ったり土を取ったり、すると腹痛がおこるという。
昭和7年11月に陸軍特別大演習の時も、古墳の上で陣地を構築した兵士が腹痛を起こしたことは、今でも村人の記憶に残っている。
巳さんの木(御所)
町の中央を流れる葛城川に沿うた岸にミーサンの木というのがある。ここは六軒町である。昔、洪水があって町の人家が流れ、ただ六軒と巳さんの木しか残らなかった。この木に白い蛇が雌雄二匹すんでいて、一年に一度だけ晴れた日に姿をみせるといわれている。
神武天皇と本馬丘(本馬)
掖上ほほ間岳(わきがみほほまのおか)という。この丘へ神武天皇がお登りになり「大和は山々にかこまれて美しい国だ、蜻蛉(あきつ)の臂口占(となめ)しているようだ」と仰せられたという。
我が国の別名「秋津島」(あきつしま)の名はここから起こったのだという。この丘の木を切ることは恐れられている。斉明天皇の越智岡の御陵をつくる時にもこの丘の木を切ることを恐れてしなかったという。また頂上にハライタ山という土壇があり、昭和17年土地の古老が黄金伝説を確かめるために掘ったあとが残っている。吾平津媛を祀った跡だと伝えている。
聖灯(櫛羅)
高鴨山に大きな松の木があり、下に小祠がある。木の上に時々、聖灯があらわれるという。
このことは『大和名所図会』にも記されている。
磐余稚桜宮(蛇穴)
村の東北に西京という地名があり、応神天皇が皇居をうつされた所だという。
竜に乗る人(葛城山)
斉明天皇の元年五月の朔日(ついたち)のことである。空中に竜に乗ってかけまわる者があった。その顔形は中華人に似て、青油笠をかむっている。葛城の嶺から生駒山に向かって行き、昼のときには住吉の松の嶺に宿っていて、それから西に向かって飛び去ったが、何者とも知れず、また何処へ行ったかもわからなかったという。
この話は『日本書紀』『大和志』『大和名所図会』などにも出ている。
麟角(葛城山)
天武天皇の九年二月に葛城山に麟角(りんかく)があった。角のもとは二枝で、末が会うて一つになっていた。その上に一寸ばかりの毛が生えていた。あまり珍しいので時の朝廷に献上したという。また白鳳十三年には葛城に四足の鶏がいたという。
雄略天皇と葛城山(高天)
雄略天皇は四年春二月・葛城山で狩猟の時、一言主神と共に箭をはなち鹿を逐い駈け狩りを楽しまれた。天皇はその翌五年の春二月またも葛城山で狩猟をされたが、大きな猪が出て来て随行の舎人も射殺するのに困り果てた。天皇はそれを憤られて、自ら猪を蹴殺されたという武勇談が今も伝えられている。
役行者と岩橋(葛城山)
茅原で生まれた役行者は額に小角があった。三宝を信じ、毎夜五色の雲を呼び寄せ天外に飛び出て、大勢の仙客と共に遠く霊地に遊んだ。また岩窟に入って葛を着て、松を食い、清泉に浴して欲界の垢を洗った。孔雀明王の呪法を修行して、思う侭に魂を使っていた。遂に大和の葛城山から金峰山へ大きな長い橋を架け渡そうと計画し、近くの神々にその援助を命じた。葛城の一言主神は容貌が甚だ醜かったので、夜の役だけつとめたため橋を渡すことが出来なかった。行者は怒って一言主神を呪縛した。一言主神は怨みをもち藤原の宮の天皇に讒言した。文武天皇は直ちに勅を下して使いを遣って行者を捕らえさせた。行者は験力をもって怱然として空にのぼって飛び去り、容易に捕らえさせないので、その母を捕らえた。行者はやむを得ず、母を救うために姿を現し神妙に捕らえられ、伊豆の大島に遠流された。海上を走ること陸を行くようで、昼は島にいても夜は富士に登って修行し、一日も早く大和へ帰れるよう三年の間毎夜お祈りをした。大宝元年の正月に許されて大和に帰ったが、その後は仙人となって天に昇って大陸に渡った。
その後、道昭法師が、勅命をうけて、大唐に法を求めた時、新羅の山中で五百人の集まりに法華経を講じていると、その席に日本語の上手な人が来ていた。名を聞くと役の優婆塞だと答えた。さては名高い役行者であると驚いて高座を下りてその人をさがすと、何処かへ去って姿はなかったという話が『日本霊異記』に出ている。
金剛山牛王
金剛山頂、大宿坊跡に安置する金銅製の牛像は、法起菩薩の化身であると伝え、牛馬の安全を守るという。