私の生まれた奈良県御所市に伝わるといわれている伝説を
つらつらと書いていきます。       御所市史より
誤字・脱字はお許しください。おいおい訂正していきます
そのうち現地で写真撮影する予定ですのでお楽しみに
「現地取材編その1」
わんこさん画 感謝

黄金の埋蔵(稲宿)
字塔の奥に塔があり、近くにみつばうつぎ(菩提樹)がある。この木の根もとに黄金千枚が埋めてあると伝え、「金が欲しけりゃ稲宿へござれみつばうつぎの根にござる」という俗謡が残っている。また本馬山(本馬)に「金ほしくはホホマの丘に来い、三葉うつぎの木に小判千両」、
さらに金剛山中腹の朝原寺跡には「朝日夕日照る三つ葉うつぎの木の下に、小判千両、のちの世のため」という俗謡がある。



奉膳(奉膳)
昔、後醍醐天皇が吉野へ行幸の途中、この地で御休みになった際、村人が御食膳を奉った。それ以来、村名を奉膳(ぶんぜ)と名付けた。

卯の宮(奉膳)
卯神社を俗に卯の宮という。昔、今木の神社が流れてきたので、拾い上げて祭ったといわれる。

姫宮(戸毛)
姫宮は、昔、洪水で古瀬から流れてきたので、ここにまつった。女神であるという。

蓮如上人の名号(戸毛)
大乗寺は、もと禅宗で、上見(あげみ)にあったが、蓮如上人が巡錫の際、真宗になれとすすめられて禅宗から転宗したのだといわれている。その時に上人が菰(こも)の上に紙を置いて、南無阿弥陀仏の六字名号を書かれたので、その型が残っている。

山伏塚(戸毛)
昔、山伏が来て、戸毛の酒屋の主人と尺八の吹きくらべをして負けたので、橋の近くで切腹した。その山伏を葬ったのが、この塚だと伝えている。

神かくしの森(今住)
樫の老樹に、しめ縄をはってあったが今は枯れた。昔、素盞鳴尊(本馬の須賀神社)が高取の丹生谷におられる天児屋根命(春日神社)の菰(こも)を盗み、この藤の森にかくれられた。それ以来ここを神かくしの森ともいう。ところが国見神社の瓊々杵尊が御覧になってワッハッハとお笑いになった。
それで、今でも国見神社の宵祭りに宮座の人が参拝する時、藤の森が見える所で、ワッハッハといって白扇子をひろげることになっている。

峰寺の仏(今住)
昔、仏さまを仏壇ぐるみ背負ってきた旅人があった。旅人は連日の疲れで重いので、この村の一軒の家へあづけて立ち去った。その後、何年経っても取りに来ないので、あれは、仏様が、旅人に化けて来られたのだと考え、寺を建てておまつりした。それが今の峰寺である。峰寺垣内の七戸が今も維持している。

小便地蔵(新田)
新田(しんでん)口の地蔵尊を俗に小便地蔵という。小便に近いものに霊験あらたかであるという。もと字地蔵という所にあったのを、ここへ移したもので、後に一度、山の入り口へ移したが村に伝染病が流行したので、お地蔵さんのたたりだといって、もとの場所にかえした。

森さん(新田)
ガンマクという薮の中に森さんというのがある。正月十五日の朝に、区民が集まって藁を焚き、餅を焼いて食べると一年中、歯痛が起こらないという。

屏風岩(樋野)
むかし、蛇山に赤茶色の丸い、槌ん子という大蛇がいた。横槌ほどの太さがあった。この大蛇を祭ったのが屏風岩である。近年、十津川分水工事で、この岩のあたりをダイナマイトで爆破したときに、事故死した人の身内の人と、監督の妻とが同じような赤い蛇の夢を同時刻にみたとか。

腹痛塚(朝町)
字鉢伏にある。この塚をさわると必ず、ひどい腹痛が起こるといわれている。この付近には多くの塚があるが、他は皆掘られたのに、ここだけはさわっていない。

九百九十九谷(朝町)
千谷あると大蛇が出るというので、一谷だけかくした。そこを隠し谷といい、そこに蛇がかくされているという。

金の鑵子(古瀬)
川合の十二社権現を俗に森さんという。神殿もなく御神体は一つの石である。その下に金の鑵子が埋めてある。さわると罰があたると伝える。祭りは毎年十月十五日である。

慈眼地蔵(古瀬)
川合にある石地蔵で、片方の眼が欠けて、ふたをしている。それで慈眼地蔵という。眼病に霊験あらたかである。蘇我入鹿の墓だという塚の横にある。「ありがたや慈眼地蔵は塚の前、おさめまつるは尊かるらん」の詠歌がある。

はしか観音(古瀬)
水泥(みどろ)の阿吽寺奥の院の観音さんは、はしかに霊験あらたかである。それで、昔からこの村の子供は、はしかにかかったことがない。

大日池(古瀬)
昔、ある人が、大日如来のお姿を拝みたいと、一心不乱に祈願した。すると夢のお告げに、水泥(みどろ)の池まで来いといわれた。夢に教えられた池まで行くと、大蛇が出てきて、忽ち大日如来のお姿をあらわし、しばらくして消え去った。それからこの池を大日池というようになった。付近に大日如来をまつった金剛寺があったが、今は廃寺になっている。

神木(古瀬)
水泥(みどろ)の春日神社にある。一本の幹からつばき・さくらなど五・六種の枝が出ている。しめ縄がはってあり、人々は神木といってさわらないことにしている。さわると祟りがある。

雲雀ヶ塚(古瀬)
字大石にある。奈良に都があったとき、大宮人が、この村で、ひばりの鳴き比べをさせた。すると負けたひばりは血を吐いて死んだ。それを埋めたのがこの雲雀ヶ塚であるという。

釈迦山(南郷)
村の寺の釈迦如来が盗難にあった。当時、十兵衛という正直者が畑へ行くと、「十兵衛、十兵衛」と呼ぶので、声のする方へ行った。山の中の黒い石の上にお釈迦様が置いてあった。お釈迦様を背負ってもとの寺へ安置した。それから十兵衛は幸福に暮らした。土地の人々はその山を釈迦山と呼ぶようになった。

高天ヶ原
高天は天孫降臨の地、高天ヶ原の聖地であり、曽我川は天安河であると伝えられている。高天には高天彦神社、高天寺などの古寺が残っている。

鴬宿梅(高天)
高天彦神社の前にある。昔、高天寺の小僧が若死したので、その師は嘆いていた。すると梅の木に鴬が来て、「初春のあした毎には来れども、あはでぞかへるもとのすみかに」と鳴いた。それからはこの梅を鴬宿梅(おうしくばい)という。「古今秘抄」には孝謙天皇の御字とある。

蜘蛛の窟(高天)
むかし、千本の足を持つ大きな土蜘蛛が住んでいた。時の天皇は御悩みであったので、勅使が来て、字サルチ(猿伐)から矢を射て殺した。矢の落ちたところを矢の段という。土蜘蛛を高天彦神社の傍らに埋め、蜘蛛塚といった。蜘蛛の居た窟は神社の前の並木の東にある。

大川の神杉(西佐味)
高鴨神社の所有地に生えている。杉の巨樹であるが、桜の宿り木がある。三十年前までは樹下に祠を祀り巨樹を信仰していた。樹下を流れる大川の水を使用する西佐味の農民は、毎年七月三十日になるとこの幹に〆縄を飾り、今なお豊作を祈念している。またこの樹にさわると大川の水がなくなり、不作になると伝えている。

和田五郎正遠の墓(西佐味)
西佐味には阿弥陀、六斉、薬師、延命寺など七カ所に寺院があった。阿弥陀寺の墓地には、薬師寺から移した一群の墓碑がある。その中にやや大きい無銘の五輪塔があるのは和田五郎正遠の墓と伝え、同村、和田氏が毎月法事を行っている。五郎正遠は楠木正成と共に活躍した南朝の忠臣である。

井戸を恐れる仁王さん(伏見)

伏見山菩提寺(本尊は十一面観音)仁王門の仁王さんは井戸と火事を恐れるといわれている。この村では四十軒もあっても井戸は1つしかない。正月のとんども、この村だけは行わない。この仁王さんの股の下をくぐると体が丈夫になるといい伝えている。


天得さん祭り(吐田)
昔、十河行光という武士が葛城の山ふもとに住んでいた。金剛山へ狩りにゆき、「日の石」という大石に腰掛けて休んだ。ところが夢の中に天得如来の姿を眼のあたりに拝した。帰ってすぐ、その通りの姿を描いて仏門に入った。画像は極楽寺に奉納した。今でも「天得さん祭り」という行事がある。



櫛羅の滝(櫛羅)
昔、弘法大師がこの地を巡錫し、天竺のクジラの滝によく似ているので供屍(屍の冠の部分漢字がない!)羅(くじら)と名付けた。供屍羅の供屍という字は「供に屍」と書くのはいけないとあって、領主の永井信濃守が供屍の二字を櫛と改めたという。この滝は別に尼ヶ滝または不動の滝ともいわれている。この滝に浴するものは不動明王の功徳によって脳病によく効くといわれている。

法華経塚由来(櫛羅)
俗に「さるめ」という所の、ささやかな林の中に法華経塚がある。「ほけきゃう塚」と刻まれた石標が立っていて、五輪塔が塚の上に立っている。昔、役の小角が法華経を埋めた塚だという。

身代わり石仏(楢原)
字田口の九品寺境内に千数百体のおびただしい石仏がある。俗に千体仏と呼ばれているが、この石仏は城主楢原氏が南朝の味方として朝敵と戦ったとき、地方人が千体仏をつくり、味方の身代わりとして九品寺に奉納し、敵の軍を悩ましたので、身代わりの石仏と称せられた。中には精巧な手法のものも交じっているが、多くは目も鼻もハッキリしない。あわただしい戦乱のさ中に作ったためだと伝えている。

白雲庵の石塔(楢原)
白雲庵廃寺には十三重の石塔があった。また極楽寺にもそうとう巨大な十三重層塔が境内北側にあったが、大正時代、五十円ぐらいで売却した、極楽寺には今なお灯篭の基礎に層塔の一部が残っているが、層塔は一基あったということである。おそらく鎌倉時代のものであろうが、丹波市方面へ搬出したと伝えている。また同村石ヶ坪にも巨大な礎石があり、頂面には直径一尺余(深さ四寸?)の孔を穿ち、水をたたえていたので農民たちはカマを研ぐ砥石の水に使用していた。この礎石も昭和五年ごろ、三円くらいで玉手の水野某の世話で、天理市付近に売却されたということである。

宮山古墳の大石(室)
昔、この塚の大石を掘り出して橋に使ったが、その橋を通った人や牛馬が腹痛を起こしたので、もとのところへ返したという。この塚は武内大臣の墓だといわれている。

祈りの滝(関屋)
昔、役の行者が、葛城山へ修行にゆく時にこの滝で身を清めて衆生済度の祈りをこめたところだという。

土蜘蛛塚(森脇)
一言主神社の境内にある。神武天皇がカツラで作った網をもって、土蜘蛛をとらえ頭と胴と足と三つに切って埋めたという。これから葛城という名が出た。

蜘蛛の牙(森脇)
昔、大蜘蛛がいて、毎夜付近を荒し回ったので、一言主神さんがこれを捕らえられた。その蜘蛛を殺して埋めたとき、あまり牙が大きいので取っておかれた。それは今も一言主神社の宝物となっている。

吐田の森(極楽寺)
役行者が葛城山へ修行にゆかれるとき、ここで大きな蜘蛛が出てきて行者に喰ってかかった。行者は杖で殴ると蜘蛛は田の中で泡を吐いて死んだ。ここを吐田の森という。

追着の森(玉手)
役の行者が十七歳の時、葛城山へ修行の途中、十五・六歳の娘が現れ、行者を追いかけたので、行者は独鈷杵で女を追い払った。しかし娘は大蛇と化し行者に迫ったが、鴨の明神の助力を得て大蛇に勝つことが出来た。以来、追着の森という。

笈懸の杉(茅原)
熊野神社の西側に役の行者が大峯山に入峯の時、笈を懸けたという杉の木があった、今は枯れて株だけが残っている。

産湯の井(茅原)
役行者は茅原寺で生まれたといい、その産湯の井戸が境内にある。行者が生まれる時、一童子があらわれ、大峯の瀑水をくんで行者の体を洗い流した。その水が地に落ちてたまったものだともいう。俗に産湯の井、またはあか井とよんでいる。


行者路(筋かい途)
茅原村より金剛山高天の森に至る小路をいう。昔、役行者小角が朝夕高天の森で修行するため往復した道であるという。途中行者道の不便なため、時の領主越知氏の許可を得て始めてこれを修築したもので、その許可証は今も茅原山吉祥草寺中の坊に保存されている。


笠堂(茅原)
むかし、大暴風雨で田植えが出来なかった時、役行者がここを通り自ら田の中に入って田植えをした。すると不思議にも雨風はやんだ、その時行者の笠をぬいだ所に地蔵尊を安置したのが今の笠堂だという。また戦国時代に笠堂の修復があった。その出来あがりの日に世話人が供物を村衆に分った。その時一人の見慣れぬ巡礼者が交じっていた。それはあとで明智光秀の娘であったと分かった。


たらいの森(玉手)
村の西北にある。役行者が茅原寺で生まれたとき、産湯に使用したたらいを埋めた所という。


杓の森(玉手)
村の西入り口の老ナツメが生えている土壇がある。役行者誕生の時に産湯を汲んだ木杓(しゃく)を埋めた所といわれる。


よな塚(南十三)
行者が生まれたとき、よなを埋めた所であるという。


ほんがらの宮(柏原)
ほほ間神社はほんがらの宮ともいう。曽我川から流れてきたのを祭ったのだといわれる。神武天皇がヒメタタライスズ姫を入れて正妃とされたので、前后吾平津姫は柏原のこの宮でわび住まいされたと言い伝えられている。そのために今でも嫁入りの行列はこの前を遠慮して通らない。もし通ると不縁になるといい、祠に幕を張るのである。南側に嫁入り道というのがある。


鑵子塚(柏原)
永田池の西南にある、俗にひょうたん山という。日本武尊が伊勢の国の能褒野にて崩じたまう時、白鳥と化して大和をさして飛んだ。その白鳥陵だという。むかし、この山から琴の音や笛の音が聞こえたといわれる。


縛り地蔵(玉手)
字上寺(うえんじ)の薮の中にある。石仏は地上に露出している。この地蔵さんを縄でしばると歯痛やテンカンが治るという。


城山の白狐(玉手)
昔、殿様に愛せられていた「およし」という白狐が、城山の西にすんでいた。この狐が殿様の家来の一人の悪者がかけた鼠の油揚げを餌にしたワナにかかって殺された。その狐を埋めた狐塚がある。


放光現瑞の石仏(玉手)
満願寺にある。昔、この寺の繁誉上人が、円光大師御忌の法要をすました。その晩のこと空から音楽入りで光を放って石仏が下りてきた。このことが本山の知恩院に聞こえ、放光現瑞の石仏という名をもらった。立派な光背がある。厨子は当時の藩主桑山下野守が寄付されたものと伝えられている。


敦盛姿見の井戸(鴨神)
吹薮という所に生えた二股の竹で、平敦盛の持っていた青葉の笛を作ったという。敦盛はこの薮の中にあった井戸で姿をうつされたという。


汁かけ祭(蛇穴)
昔、ここに長者がいた。その長者に一人の娘があった。その娘が毎日ここを通って葛城山へ修行にゆく”役の行者”というものに恋をしたが、行者は振り向きもしなかった。娘は蛇身に化けて毎日あとを追うた。野良に弁当を運ぶ村人たちはビックリして味噌汁を蛇にブッかけてにげた。蛇は穴にかくれた。それから娘の供養にと野口大明神とあがめ、祭典には汁かけ行事を行うのだという。それから市部村を蛇穴(さらぎ)村と改めたという。


茅原のトンド(茅原)
昔、役行者が大峯山へ詣ろうとしてここまで来られた。すると道も埋もれるほど大きな茅が一面に生えていて、向こうへ進まれなかったので、行者は困り果て、茅を焼きはらわれた。それからここで、年一回大トンドをするようになった。トンドをしないと村に火災が起こるといわれている。


ハッチョはん(東寺田)
八幡神社の東近く民家の中にある。ここに数本の椿の木があって神木とされている。シメ縄がはってあり、前に石灯篭が立っている。椿の花や葉を取ると顔がはれるというので、昔から誰も触らない。ハッチョはんは八王子さんのことであろう。


天下塚(東寺田)
満願寺川を隔てた庚申山の東ふもとの田圃の中、字天下辻にある。全面に芝生のある方墳である。古代の人の甲冑を埋めたところと伝えられている。昔から真夜中に、このあたりを歩くと嬰児の泣き声が聞こえるという。また草を刈ったり土を取ったり、すると腹痛がおこるという。
昭和7年11月に陸軍特別大演習の時も、古墳の上で陣地を構築した兵士が腹痛を起こしたことは、今でも村人の記憶に残っている。


巳さんの木(御所)
町の中央を流れる葛城川に沿うた岸にミーサンの木というのがある。ここは六軒町である。昔、洪水があって町の人家が流れ、ただ六軒と巳さんの木しか残らなかった。この木に白い蛇が雌雄二匹すんでいて、一年に一度だけ晴れた日に姿をみせるといわれている。


神武天皇と本馬丘(本馬)
掖上ほほ間岳(わきがみほほまのおか)という。この丘へ神武天皇がお登りになり「大和は山々にかこまれて美しい国だ、蜻蛉(あきつ)の臂口占(となめ)しているようだ」と仰せられたという。
我が国の別名「秋津島」(あきつしま)の名はここから起こったのだという。この丘の木を切ることは恐れられている。斉明天皇の越智岡の御陵をつくる時にもこの丘の木を切ることを恐れてしなかったという。また頂上にハライタ山という土壇があり、昭和17年土地の古老が黄金伝説を確かめるために掘ったあとが残っている。吾平津媛を祀った跡だと伝えている。


聖灯(櫛羅)
高鴨山に大きな松の木があり、下に小祠がある。木の上に時々、聖灯があらわれるという。
このことは『大和名所図会』にも記されている。


磐余稚桜宮(蛇穴)
村の東北に西京という地名があり、応神天皇が皇居をうつされた所だという。


竜に乗る人(葛城山)
斉明天皇の元年五月の朔日(ついたち)のことである。空中に竜に乗ってかけまわる者があった。その顔形は中華人に似て、青油笠をかむっている。葛城の嶺から生駒山に向かって行き、昼のときには住吉の松の嶺に宿っていて、それから西に向かって飛び去ったが、何者とも知れず、また何処へ行ったかもわからなかったという。

この話は『日本書紀』『大和志』『大和名所図会』などにも出ている。


麟角(葛城山)
天武天皇の九年二月に葛城山に麟角(りんかく)があった。角のもとは二枝で、末が会うて一つになっていた。その上に一寸ばかりの毛が生えていた。あまり珍しいので時の朝廷に献上したという。また白鳳十三年には葛城に四足の鶏がいたという。


雄略天皇と葛城山(高天)
雄略天皇は四年春二月・葛城山で狩猟の時、一言主神と共に箭をはなち鹿を逐い駈け狩りを楽しまれた。天皇はその翌五年の春二月またも葛城山で狩猟をされたが、大きな猪が出て来て随行の舎人も射殺するのに困り果てた。天皇はそれを憤られて、自ら猪を蹴殺されたという武勇談が今も伝えられている。


役行者と岩橋(葛城山)
茅原で生まれた役行者は額に小角があった。三宝を信じ、毎夜五色の雲を呼び寄せ天外に飛び出て、大勢の仙客と共に遠く霊地に遊んだ。また岩窟に入って葛を着て、松を食い、清泉に浴して欲界の垢を洗った。孔雀明王の呪法を修行して、思う侭に魂を使っていた。遂に大和の葛城山から金峰山へ大きな長い橋を架け渡そうと計画し、近くの神々にその援助を命じた。葛城の一言主神は容貌が甚だ醜かったので、夜の役だけつとめたため橋を渡すことが出来なかった。行者は怒って一言主神を呪縛した。一言主神は怨みをもち藤原の宮の天皇に讒言した。文武天皇は直ちに勅を下して使いを遣って行者を捕らえさせた。行者は験力をもって怱然として空にのぼって飛び去り、容易に捕らえさせないので、その母を捕らえた。行者はやむを得ず、母を救うために姿を現し神妙に捕らえられ、伊豆の大島に遠流された。海上を走ること陸を行くようで、昼は島にいても夜は富士に登って修行し、一日も早く大和へ帰れるよう三年の間毎夜お祈りをした。大宝元年の正月に許されて大和に帰ったが、その後は仙人となって天に昇って大陸に渡った。
その後、道昭法師が、勅命をうけて、大唐に法を求めた時、新羅の山中で五百人の集まりに法華経を講じていると、その席に日本語の上手な人が来ていた。名を聞くと役の優婆塞だと答えた。さては名高い役行者であると驚いて高座を下りてその人をさがすと、何処かへ去って姿はなかったという話が『日本霊異記』に出ている。


金剛山牛王
金剛山頂、大宿坊跡に安置する金銅製の牛像は、法起菩薩の化身であると伝え、牛馬の安全を守るという。



ねた切れ!


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