Last update 1999/08/07

オブジェクト指向によるゲームデザインを考える

第1回

(C)平山直之
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この文章は、あくまでも現時点での私の個人的な意見ですので、一般論として考えないようお願いします。私はこの方針で邁進する所存ですが、結果を出せなければ机上の空論として終わることでしょう。

ゲーム制作における役割分担

「オブジェクト指向によるゲームデザイン」を考える前に、前提として踏まえておかなければならないことがあります。

ゲーム制作における「役割分担」です。

プロアマ問わず多くのゲーム製作者のページを漁ることによって気づいたことがあります。それは、ありふれた言葉で言えば「ゲーム性の軽視」、私なりの表現で言えば「誰もゲームを作っていない」ことです。

はじめから確信犯的に「ゲーム性」を放棄したプロジェクトではともかく、そうでないプロジェクトでもうまくいっているケースは余りないようです。

こういう状態になったのはなぜでしょうか? もちろん私は、なるべくしてなったと考えます。

最大の原因は、制作体制における戦略部門の技術不足、軽視、ないし混乱です。多くの製作者が見過ごしているかかん違いしていると思われるのは、「戦略には戦略の技術がある」ことです。それはプログラマ・グラフィッカといった「兵隊」の技術とはまったく異なるものであり、そのような「兵隊」としていくら技術が長じたところで、戦略的な技術を得られるわけではありません。

では、俗に言う「企画者」を育てればよいのでしょうか? それも違います。多くの現場で混乱が見られるようですが、「企画」「進行」「ゲームデザイン」「シナリオ」はどれも違う仕事で、同じ人がやったほうが若干便利という程度の理由はあっても、必ず同じ人がやらなければならない理由はないのです。

それを同じ人がやってしまう理由には、大きく分けて次の2つがあるようです。

上は論外として、下はしっかりとした理論的背景がなければ回避できなことですので、考えてみましょう。

ゲームを作る上で、ゲームの企画というものは、基本的に制作を開始する前に存在していなければなりません。そのため、企画・立案の作業はプログラム・グラフィックなどの制作に先行して行われることになります。結果として、プログラム・グラフィックより先に手が空いてしまいます。そのため、その後の進行やゲームデザインを引き受けることになるのです。

結論から言えば、本来「企画者」なんてものはゲーム制作ではなりたたないはずです。企画を立てるだけで生活を支えられるずば抜けた能力と政治力がない限り、本当に「ただの」企画者では、企画が通った後にすることがなくなってしまうからです。「企画者」とは一時的な属性であるべきで、肩書きであってはならないのです。

このことは、必ずしも企画はシナリオ製作者やゲームデザイナーと兼業でなくてもよいということを意味します。ならば、プログラマやグラフィッカやサウンドコンポーザも、プロジェクトの合間(あるいは並行してして)には「企画者としての技術」を磨くべきなのです。

基本的に、アイディアというものは何かに触発されて出るものであり、うんうんうなっていれば出てくるものではありません。せっかく多人数で行う作業なのですから、ブレインストーミングを行うのがベストでしょう。企画者より独創的なアイディアを持ったプログラマやグラフィッカも少なくないでしょうから、みんなで雑談をして、それを誰かが議事録として企画書にまとめればよいのです。実際にそれはゲーム制作の中で一番楽しい作業でしょうし、メンバーのコンセンサスを得て士気を高めるのにも役立つでしょう。まあ、何も考えてない人や出し惜しみする人も結構いるものなので、ある程度のたたき台は必要でしょうが(出し惜しみする人の考えることなんて大概たいしたことじゃないですけどね)。

ゲームデザイナーの責任

さて、企画者がいらなくなった代わりに、必要になるものがあります。それは、本稿の本題になる、「ゲームデザイナー」です。

多くの小学生が将来なりたい職業のNo.1に推すまでになったゲームデザイナーですが、多くの現場では評判が悪いというか、余り存在意義を認められていないようです。

「現場の製作者」がその理由として挙げるのが、「プログラムもグラフィックも音楽もできないという理由でゲームデザイナーになりたがる人物がゴマンといること」のようです。

これは事実のようなので、否定しません。

しかし、だからと言って、ゲームデザイナーが必要なくなるわけではありません。「ゲームのようなゲームでないもの」を作りたいのなら別ですが(それを否定するわけではありません)、「ゲーム」を作りたいならやはり「ゲームデザイナー」は必要なのです。

また、プログラムかグラフィックか音楽ができるからと言って、ゲームデザイナができるわけではありません。そうした特技を持つことはそのゲームデザイナにとって「個性」にはなりうるでしょうが、ゲームデザイナが必ず持っているべき技術とは明白に異なるものです。

ではなぜゲームデザイナが軽視されがちなのか? それはゲームデザイナが完全な技術職(しかもある意味職人的な)であるのにも関わらず、それが(多くのゲームデザイナ自身にさえ)認識されていないことにある、と私は考えます。ここで私が言う「技術」とは、「幅広い知識を持つ」とか「バランス感覚を持つ」といったような文系的(とよく言われる)なものではなく、もっと理数的なものです。

実際にゲームデザイナーが技術職であるかどうかは別として、それが技術職であると認識されていないことは、これだけ目指す人が多く発売されているゲーム数からいって需要もあるはずのゲームデザインについて、その技術を語った文献がほとんどない(あるいはマニアのものの域を出ない)ことからも明らかです。

プログラマやグラフィッカ、サウンドコンポーザには、分野による得意・不得意はあっても、数直線状にあらわせるようなかなりはっきりした「実力の評価」が下されます。みんな目が肥えているので、善し悪しを明快に判断できるのです。

しかし、ゲームデザイナには今のところそのような基準はありません。それ自体が単独で成り立つような自己を主張できる技術を見せ付けることができなければ、プログラマはゲームデザイナのコンピュータセンスのなさに苛立ち、グラフィックデザイナはゲームデザイナのデザインセンスの無さをバカにすることでしょう。これは決してプログラマやグラフィッカの人間性とか人格の問題ではありません。必然的な構造の問題です。

これまで、「クリエイティビティが必要」とか「アイディアが大事」などといった呪文を盾に、技術として文献などの形にしてゲームデザイナ同士でブラッシュアップすることを怠ったことが、コンピュータゲーム業界の今日のような状況を招いたように私の目には映ります。クリエイティビティがどうとかいいながら、見事なまでにクリエイティブなソフトを売れ残るほど生産してくれちゃってるわけです。ゲーム好きな私の目から(贔屓目に)見ても、現在のゲームのほとんどは、これから成人してくる「ゲームが特別のものではない」世代にとってはそれ以外のメディアに勝てるようなものではないように思われます。

ゲームのアイデンティティ……つまり他のエンタテイメントとゲームとを分ける核の部分の技術的進歩がなくて、他のエンタテイメントに太刀打ちできるわけなどありません。エフェクト技術もCG技術にもゲームの独占物ではありません。この世界を長続きさせたいなら、目先の利益にとらわれてはなりません。業界全体を長期的な視野で見れば「売れてしまったからこそマズい」ことも十分に考えう得ます。なぜなら、戦略的見地において高い能力を持つ人材が、つまらない(居場所を見つけられない)思いをしたり将来性を見限ったりして離れてしまうからです。私はかつてそれを、今ではもはや虫の息だといわれている日本のTRPGの世界で見ました。インターネットを見回せば、同じ思いを抱いた人も決して少なくないようです。

幸い、コンピュータゲームには「すばらしい」と誉められるものがないわけではありません。数多く生まれる作品の多くが駄作で良品がわずかなのはどのエンタテイメントでも同じでしょうから、そういう意味では、他の芸能と大きな差はありません。

しかし、コンピュータゲームには特有の罠が潜んでいます。グラフィックス・サウンドなどのずいぶん昔(100年とか200年とかいう単位の昔)に大成した分野はおろか、コンピュータのハード・ソフトの技術のような「共に歩んできたはずの」分野にさえ、ゲームデザインという技術は大きく遅れをとっているのです。これが意味するのは何か? つまり、こういう人たちは「別にゲームがなくても独り立ちできる」ということです。コンピュータゲームにとって彼らが不可欠な存在であるのにも関わらず、コンピュータゲームに魅力がなくなったらすぐに見放されてしまう公算が大きいのです。

「ゲームデザインに携わっている人数が少ないから」では済まされない問題です。ゲーム業界全体の命運がそこに懸かっているからです。技術の底上げを行って、ゲームデザイナの技術者として地位を確立しなければならない、と私は考えています。そのためには、「ゲームデザイン=アイディア勝負」のような水物感覚をまず捨てなければならないでしょう。そうした「才能」「運否天賦」的な考え方は、(他の分野がそうであるように)もっと後で持ち出すべきもののはずで、そうした考えがまかり通るほどに現在のゲームデザイン技術は洗練されてはいません。「プログラムもグラフィックも音楽もできないという理由でゲームデザイナーになりたがる人物がゴマンといる」とか言っている暇があったら、「確立された技術」という事実によって、技術者としての威厳を示すべきなのです。

「ゲームデザイナの仕事」のについて「あいまいで難しい」的言い逃れをする人はすくなくないようですが、私は「ゲームデザイン」という作業の内容はかなり明確であると考えています。

ここでも結論を言ってしまいましょう。ゲームデザインとはオブジェクト指向分析(の派生物)のことに他なりません。そして、ゲームデザイナーとは、「SE」のことを指します。クリエィティビティは、その技術の先にあるものです。(次回に続く)

宿題

もしこの文章を興味深いと感じてくださって、次を読みたいと思われたら、とりあえずここを読んでおいてください。できればサイト全体を読んでおくことが望ましいです。

私のリンク集も参考になると思います。

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