■ 宮沢章夫(劇作家)「HOT-DOG PRESS」1992年1月10日号

かつて見た、「かもねぎショット」の舞台の中で、私がいちばん印象に残ったのは、足踏みをしながらただ歌う場面で、「ただ歌う」と書けば何か語弊がありそうだが、本当にそれはただ歌うのだった。しかもただ歌うばかりか、歌が終わりに近づいたところで、なぜか転んでしまい、また始めから歌う。今度は何か歌にも変化が加わるかと期待すると、やはりただ歌う。こうしてそれが繰り返され、いくらなんでもそろそろ終わるかと思えば終わらないので、どうしちゃったのかと人に心配させるほど、ただただ歌うのであった。私にはそれが、「身体の無為」と呼ぶべきものだと思えた。(中略)あの、「ただ歌う反復」に何か意味があるのだろうか。おそらく何もないだろう。だからこそ私は彼女らの舞台に可能性を感じる。「身体の無為」とは、身体が存在することのきわめてプリミティブな喜びである。彼女らは、ちょっとどうかと思うほど献身的に身体を駆使する。それは「対観客」という構図ではなしに、ただ自分のためにそうであるが故に、それは「身体の無為」であり、その喜び、楽しさとはつまり、子どもの抱く好奇心に近いものだ。だから、と気が付くのは、そうした無自覚な喜びは常に冷ややかな残酷さを内包する。それがまた、彼女らの舞台の魅力の一端なのであろう。

■ 米屋尚子「日経 image climare forecast」

等身大の女性をユーモアを交えて描き出す作風で、現代の元気な女性パワーを感じさせる舞台づくりが注目を集め始めている。身体表現へのこだわりから、演劇だけでなく、「生活ダンス」と呼ばれるダンス作品も発表(中略)日常生活のスケッチから、その動きをそのままダンス化した作品で、芝居とダンスの境界上で表現することを試みている。

■ 西堂行人(演劇批評)「第7回青山演劇フェスティバル・パンフレット」

(前略)「婦人ジャンプ」では、言葉を介さずとも、当為即妙な演技(ダンス?)によって活写される生活の細部に批評的なまなざしが注ぎこまれ、知的でシャープな舞台に仕上がっていた。
女性だけの演劇グループは今ではさして珍しくなくなったが、この〈かもねぎショット〉が他とちょっとだけ違うのは、演劇という枠組みに囚われることなく、その格子を自由に潜り抜け、弄ぶ柔軟な感受性を持ち合わせていることである。当然そこには知的で実験的な仕掛けが施されている。演劇というジャンルを固定して考えてしまうと、とたんに息苦しくなって、自前の技術を切り売りしていかざるをえない。だからその前提はなるべく風通しよくしておくに越したことはない。〈かもねぎショット〉という不思議な命名のなかには開き直ったその構えがよくうかがわれる。

■ 上野房子(舞踊批評)「ダンスマガジン」1993年1月号

(前略)かもねぎショットの公演で、『婦人ジャンプ2〜健康を祝って』という作品。作はかもねぎ三人組の連名、伊藤は構成・演出というクレジットになっているが、四人の共同作業が生み出したものだろう。ダンスとも芝居ともつかない十数のエピソードからなる。(中略)
最も愉快なダンスは、床に座りこんだかもねぎ女優たちが、ラテン音楽にのって鍋を磨くシーン。たかが鍋磨きと馬鹿にしてはいけない。鍋磨きだって、立派なダンスだ。マーサ・グレアム流に翻訳すればコントラクト&リリース、ドリス・ハンフリー流ならフォール&リカバリー。トリシャ・ブラウンだって、ホウキで力一杯床を掃く=エネルギーを力一杯発散させるダンス(?)を創ったもの。道具が鍋にしろホウキにしろ、体の中をエネルギーが走る快感を、巧みに捕まえているのだ。
(後略)

■ 上野房子(ダンス評論家)「ダンスマガジン」1993年

(前略)「日常の動作によって、感情を表現する。」
まさにこの点で、伊藤とかもねぎショットはつながっていると思う。(中略)「生活ダンス」シリーズでも、動きそのものはたいていきわめて具体的な「日常の動作」である。例えば「生活ダンス」のなかには、三人の女がそれぞれ大根をおろし、鍋を拭き、ボウルの中で泡立て器をかきまわし、といったシーンがあったり、三人が美容・美顔・化粧に励んでいるシーンがあったり、ママさんバレーの試合のシーンがあったり、夜中にハッと目を覚ます女、といったシーンがあったりする。そしてそれらはすべて(彼女たちのプレスリリースの言葉を借りれば)「人間の癖・こだわり・本音、そしてそこに現われる人間の健気さ、おかしさ、かなしさを表現」しているのである。
彼女たちは、実にポジティブに、人生に、また人間に、向きあっていると思う。彼女たちの舞台の最大のチャームポイントは、「見ていて元気が出る」という一点だろう。それはひとつにはメンバーの人柄の明るさのせいでもあり、また基本的に人間というものを「いとおしいもの」と見る視線のせいでもある。そしてもうひとつ見逃せないのは、彼女たちが、三十代の女性としては珍しいほど、“体(力)に自信を持っている”ことがあっけらかんと滲み出ていることである。それは決してダンサー的なナルシズムではなく・・・・・(中略)彼女たちは、おのずと、「動きを使って感情を表現する」という、自覚性のほうへ傾きそうになる。この性向と、「ただの動き」を求める伊藤の志向が、“オンナというものの肯定”という踏切り板の上で幸運にも止揚されているとき、彼女たちの「生活ダンス」は、ほかのどこにもない生の輝きを獲得するのである。