TRAVEL ESSAY

ケニヤの民家の泊めてもらう。


ケニヤ旅行記(13)

1980年2月8日から3月18日まで

第13回 陶器職人の家に泊まる

 

 再度泊まることになったキタレは気候といい食べ物といいホテルといい、実にいい所だとつくづく思う。あのロドワーの暑さ、水なし、野菜なし、ハエ多しの生活に比べると特にそう思ってしまうのであるが、私からみればロドワー行きはトゥルカナ族にも会えたし、みやげものも買えたし、すさまじいトラックも体験できたので十分満足して帰ってきたといえる。後はこのキタレで体勢を整えてナイロビへの帰路にあるバリンゴ湖かナクール湖へ寄って一度泳いでみたいと思っている。そんな思いを庄司と前田くんに話してから早速トラックの集まっている場所へ行って尋ねてみる。するとキタレからレイク・バリンゴまでの車はなく、一旦ナクールまで行ってそこからバリンゴ行きのバスを使えば良いと言われた。そこで明日早い時間にキタレを出て、ナクール経由でどちらかの湖に寄ってからナイロビまで帰ろうということになった。

 宿に戻って早速お湯の出るシャワーを浴びる。昨日までの疲れが一気に洗い流される思いだ。ちょっと贅沢にコーヒーを飲みたいと思い、キロシン(灯油)を買いに行く。近くのガソリン・スタンドで買い求めたのだが、私のKeloseneという発音がおかしかったのか、何回言っても通じなくて困った。戻って簡単な朝食をとり、3人でマーケットまで野菜や果物を買いだしに出かける。

 昼飯は庄司が得意の野菜スープを作り、前田くんからも「おいしいですね」と言われて喜んでいた。この前田くん、一見おとなしそうに見える青年だったが、一人で一年近く旅行しているつわものだった。彼は一旦ナイロビまでフリーのティケットで入り、(ここまでは我々と同じだが)ふと知り合った日本人からパリで働く口を知っているから紹介してあげるという言葉に乗って、片道の切符だけ買ってパリに行き、そこで皿洗いをして稼いだお金でギリシャ、エジプト、スーダンと陸路にてケニヤにまで帰ってきたという。とてもそんなバイタリティがあるとは思えない顔付きだが、そういえばロドワーからの帰りのトラックの値切り方はあきれるほどしつこかった。そんな彼もパリで初めて買った娼婦にだまされて、稼いだお金を全部持っていかれた経験を話してくれた。

 たっぷり食べた後、他の二人は寝てしまったので、一人ゆっくりキタレの町を散策してまわる。この町はケニヤのこれまでの町に比べたらかなり文化的な雰囲気のする町で、シネマあり、博物館あり、印刷所、本屋、銀行等みな立派なものばかりである。そのくせ人々は至ってのんびりと暮らしており、またまた気に入ってしまった。決して観光などでは訪れることのない町なのに、何故か妙に落ち着いて居心地がいい。但し、一人で歩いていると、子供たちが寄ってきて話しかけてくるのだが、みな決って「Chainese?」って聞いてくるのには参ってしまった。この質問には慣れっこになっていて、必ず「ああ、そうだよ」とお茶を濁してきたのだが、最近では割りと民族意識に目覚めた訳でもないのだが、言った本人をつかまえて即座に「Not Chainese. I am Japanese.」と言い返すようになっている。この国では日本より中国の方がポピュラーなようだ。そういえばこの町のシネマで上映されていたのは、香港製の中国空手映画であった。

  町を歩いていて思ったのだが、あの盗難に遭って以来、難を逃れたもう一台のカメラをあまり使っていなかったなと思う。そんな余裕もなかったのだろう。ここへ来てのんびり町の様子をながめている内に、とてもいい光景がいくつか見つかって、何枚か写真を撮った。高い木のあるモスク。小学校のバスケットの対抗試合。マーケットのおばさんたち。どれもとりたてて写真になるものではなかったが後でみると思い出深いものになりそうなものばかりである。

 夜は私が例によってワン・パターンの料理を作ってから、将棋をしていたら、ベンジャミンが前のナイト・クラブの女を連れて入ってきて、それは賑やかな部屋になってしまった。

 昨夜、寝る間際にひどい下痢をしてしまい気分が優れないまま起きてみるとまだ腹の具合が悪く、体に力が入らない。ケニヤに来てここまで何とか健康でこれたのに何か悪い病気にでもかかっていなければよいのだが。

 昨日、私が提案したナクール行きはその後の話し合いで急きょ変更となり、ビクトリア湖の湖畔のキスムまで行って、そこから列車でナイロビまで戻ろうということになった。さらにその途中でカカメガという小さな村があって、そこで陶器を買うと安いという情報を庄司が何処からか仕入れてきた。そこで朝早く起きて出発しなければと思っていたが、庄司も前田くんものんびりしていて、結局宿を出たのは昼を少しまわっていた。出てすぐに、激しい雨となり、又しばらく通りの店先で様子をうかがってからの出発となってしまった。キタレを立つ時は必ず雨が降る。これはキタレの土地の精霊が我々にここから出るなと言っているようである。

 雨が小降りになってきたのをみはからって、カカメガ行きの乗合いプジョーに乗り込む。道もよく、運転も快調であったが途中、乗合いプジョーなので誰か道端で待っている人がいると次々に拾って乗せていく。12人が精いっぱいのところに、どんどん乗ってくる。こういう時、すこぶる元気なのはママさんで、我々をはじめ男どもにもっと席をつめろといって大声でどなっている。おばさんパワーには誰も勝てないので、みな言われるままに従っている。

 車は2時間程で終点のカカメガに着いてしまう。降りる際、運転手にこの辺で陶器を売っている店を知らないか尋ねる。一緒に降りてその店がある方角へ連れていってくれる。しかしこの日は店が閉まっていたので、実際に陶器を作っている職人の所を教えてもらう。

親切なことにそこまで車で案内してくれる。イレシという立て看板のあるだけの何もない所で降ろされ、その近くにいた青年にその工場の場所を聞く。彼も一緒にそこまで案内してくれる。

 連れていかれた先はPOTTERYという看板だけかかった普通の民家だった。一人職人風のブワナがいて陶器を買いたいというと、倉庫のような所へ案内してくれた。そこには素朴なやきものが沢山あって、いろいろな作品を見せてくれた。そして実際に作るところを、もう一人の弟を呼んで実演してくれた。我々がいろんな質問をするので、奥の炉を見せてくれたり、どうやって出荷するのかも説明してくれた。値段を聞いてみて驚いたのだが、ナイロビあたりで目にしたものと同じものが3分の1ぐらいの値段だ。これは輸送の問題さえなければ沢山買っていけるな、と庄司と話し合い、落ち着いて品定めに入った。ところが我々二人の持ち金は底をついており、二人併せても500シリングしかない。そこで同行の前田くんから足りない分を少し借りることにして沢山買い込む。

 輸送の問題もどうやら大丈夫なことを確認して品物の値段を交渉していたら、突然雨が降ってきた。そういえばキタレからここへ来る途中も何度か激しい通り雨があった。そこでこの辺に宿はないかと尋ねると、あなな方はお客さんだからうちに泊まって下さいとのこと。おまけに夕食まで出るという。これはすごい!と思ってまたまた奇声を発してしまう。

 最終的に買うものが決ると、私が納品書のようなものにその形状のイラストと値段を書き入れていって、合計を出した。全部で460シル。プラス輸送費その他が190シル。なけなしの金を払って握手をして商談成立。その後ここの家族とともに夕食をいただく。全員で8名の大家族でそこに突然闖入して何だか悪いような気持ちになった。

 食事はウガリとチキンの辛いスープでこちらの家庭料理は初めてだったがとてもおいしい食事だった。いろいろ話しをしながら、最後に歌を歌ってもらう。おばあさんが昔の歌だと言って珍しい歌を歌ってくれた。それをこっそり録音しながら、今度はみんなでマライカを合唱する。この誰もが知っているマライカの歌詞は後で知ったのだが次のような内容のものだった。“マライカ(私の天使)よ、私はあなたを愛している。なのにどうしたらいいのだろう、あなたと結婚したいのにお金がありません。マライカ(私の可愛い小鳥)よ、私はあなたを愛しています。”道理で、よくこちらの人から「結婚する時はお金はどうするのか」と聞かれたが、この歌には貧しい生活の一面が潜んでいたようだ。

 そんな団らんを一緒に過ごしているうちに、ここの家の人々がいわゆるケニヤの典型的な庶民なのかもしれないと思えてきて、客と職人という関係を越えて、実にフレンドリーな気持ちをかいまみた思いだった。そのことはこの晩の星の輝きが証明していた。用を足そうと思い、便所の場所をきくと、畑の向こうの離れた場所だという。そこは施設こそ簡素なものであったが、これまでに利用した最高級のトイレで、にわか雨の降った直後のせいか、満天の星が輝いて今にも降ってきそうなほど、それは素晴らしい光景であった。星がこんなに美しいものだと感じたことはなかった。しばらくここにたたずんで、これもきっと今回の旅のハイライトとなることだろうと一人用を足した後も感慨にふけってしまった。

 この家は電気も水道もない家だったが、ただひとつ暖かい団らんともてなしがあった。おやつを出してくれたり、チャイの時間があったり、簡素な中にも精いっぱいの気持ちが伝わってきた。おかげでぐっすり眠れたようで、朝のラジオの音で目が覚めた時はもう9時をまわっていた。

 チャイとパンの簡単な朝食をいただき、その後昨日買った陶器のパッキングを見とどける。どのようにして送るのかが今いち心配だったからだ。彼らのパッキング方法は至って簡単で、バナナの皮の干したものをショックアブソーバにして、その包みを段ボールに詰め込んでいくやり方だった。その結果、あんなにあった陶器の数々が瞬く間に一つの箱に収まってしまった。その箱をさらに麻のロープでがんじがらめに縛るのだが、その力を入れて縛る度に、中の陶器は大丈夫だろうかと正に我身が縛られる思いだった。このパッキングされた荷物は明日ここの主人(チャールズ氏)がキスムまで運び、そこからマリンデ・タックスという運送屋によってナイロビのAfrican Heritageという有名なみやげもの店まで届けるという。その後、航空便か船便に乗せるとのことであった。何だか不安の続く輸送経路である。例えナイロビまで安全に着いたとしても、その後の輸送が安全かどうかは分らない。しかしそんなことを今考えても仕方ないことなので、40kg近いパッキングの腹に祈る思いでFRAGILEと大書する。そしてチャールズ氏にAfrican Heritage 宛てのレターを書いてもらい、一緒に記念写真を撮って出発することにした。その際、お世話になったお礼にと、ペン型ライトを進呈する。みんなして道路の脇まで見送りにきてくれ、別れを惜しみながらプジョーに乗り込む。

 ここからキスムまでは小一時間程で着いてしまい、降りてすぐにタクシーに乗って駅まで切符の予約をしにいく。しかし、駅に着いた時刻は正午をまわっており、窓口は2時まで休みに入っていた。そこで庄司がキスムのダウン・タウンを見たいと言い出したので、私が荷物番をかってでて一人駅に残ることにした。

 その間を利用してこれまでこの国をまわって気が付いたことを書き留めてみる。例えば、どの町もマーケット(露店)とバス・ターミナルはきまって隣接する場所にある。おそらくバスの発着する場所に自然と物売りが集まってきたのだろう。またどんなに小さな町にも立派なモスクが一つ建っている。この国はイスラム教の方がキリスト教より普及しているのだろうか。又、下が食堂、上がホテルという安宿の経営者は必ずインド人だったり、どこでも子供がよく働いているのには驚いてしまった。またこの国の女性は概して元気で明るい。男たちなんかに負けてはいない。意に反することがあれば大きな声で抗議し、自分の意見を堂々と主張する。大したものだと感心してしまった。

 そんなとりとめもないことをメモっていたら庄司たちが帰ってきたので入れ換えにキスムの町へ出てみる。今日は日曜なので、店のほとんどは閉まっていた。そこで、有名なヴィクトリア湖の写真でも撮っておこうと思い、その方角へ向う。ヴィクトリア湖といったらケニヤ、ウガンダ、タンザニアにまたがる広大な湖で、地図でみると九州ほどはある大きさだ。そのほんの一部でもいいから見てみたいと思った。しかし駅の裏側あたりに見えるはずなのに一向にその気配すらない。何人かの地元の人に聞いて、その方角まで来ると、大きな兵舎のあるゲートの前に出る。No passengersと書いてある標識の横にいる守衛に湖の写真が撮りたいのだけどどうしたらいいのか、と尋ねる。Only water ならOKということになり中へ入れてくれて指さす方向を見ると、湖というより海のような景色が広がっている。これがあの有名な湖なのか、と疑いながらもあわててシャッターを切り、引き返してくる。

 切符を買ってからは何もすることがなかったので、5時半発の列車に2時間も前から乗り込んで休んでいた。列車は12時間もかかってナイロビに到着した。列車の中は退屈だったので、Japan Information Centerで借りてきたヘミングウェイの短編集を繰り返し読み、時間を潰すのに苦労した。


以下次号へ。

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