TRAVEL ESSAY

赤道のちょっと上に位置するキタレのマーケット。


ケニヤ旅行記(11)

1980年2月8日から3月18日まで

第11回 キタレのサイレント・ロッジ

  今日はトゥルカナの方へ出発する日なのに朝起きてみると鼻汁がでてとまらない。どうやら昨日の夜の寒さが応えたのかもしれない。思い切って起きて朝食をとった後も風邪の初期症状は続いている。庄司がリバー・ロードの方へコンロを買いにいっている間、すぐにベッドに潜ってしばらく寝ていた。寒気があって依然としていいコンディションではないが、ここで体調のせいといって出発を延ばす訳にはいかない。自ら気持ちを奮い立たせて出発の決意をする。

 庄司は心既にトゥルカナにあり、といった表情で一向に私の様子には気付かないようだ。 昼過ぎにマーケットの裏手にあるバス乗り場からあわてて飛び乗った定期便はナクール行だった。二人で46シル。乗ってすぐにも寝の体勢に入り、辺り構わずしっかり眠りをとる。おかげで気がついて起き出す頃には体調は元の状態に回復していた。途中から乗ってきたナイロビ空港に勤めているという中年のおじさんと隣り同士になり、いろいろな話しをする。ケニヤで一番ポピュラーなスポーツは何かとか、日本の交通事情はどんな有様かとか、何故ケニヤはもっと観光に力を入れないのか等々、お互いの国の事情を説明し合う格好となって話しが自然と長くなってしまった。最近では、ようやく英会話もスムーズに進むように感じられ、相手の話しも大体理解できるようになった。考えてみれば、こんな私の不完全の英語でもコミュニケーションは図れるし、食うものの注文にも困らない。要は伝えようとする意志の有無で、聞きたい、話したいという気持ちがいかに強いかで理解力は深まっていくものという確信めいたものを持った。

 しゃべりっぱなしで気が付いたらナクールまで着いてしまった。ここでみんな降ろさせられる。この後、キタレ行きのバスかトラックを探さなくてはならない。2、3人客引きのようなあんちゃんが寄ってきて何やら話しかけてくる。こちらは聞きたくないのであまり理解できない。しつこい程の彼らを制しながら、バスのブッキング・オフィスまで行くと、今日の便は深夜発の便しかなく、9時から受け付けるからもう一度来い、ということだった。そこで荷物を担いだまま、この町のマーケットを探して歩く。程なく行った所に賑わいを呈している露店マーケットがあった。ここには実に沢山の野菜や果物が並べてあって、ここで上野さんから聞いていたトゥマコ(これはキクユ語らしい)という珍しいフルーツにお目にかかる。桃のようで桃でなく、林檎のようで林檎でない初めて目にする果物である。一個買って試食してみるといちじくのような味がしてとてもうまかった。そこでその他にバナナやトマトなどを買ってから屋台のような食堂で食事をする。重い荷物を降ろしてどこかでゆっくり待機したかったのだが、適当な場所が見当らず、結局バスのターミナルまで戻ってそのそばで休むことにした。

 何もせずにひたすら待つこと6時間あまり、お目当てのバスは結局運転手がいないとかで動こうとしない。そこで最初に客引きをやっていた乗合いプジョーにやむなく乗り込んで、キタレの手前のエルドレッドという所までという条件でしぶしぶOKする。車は例によってぎゅうぎゅうに客を押し込んで二時間程でエルドレットという町にたどりつく。またここでキタレ行のバスを待たなければならない。辺りは暗闇が広がり、地図を広げて場所を確認すると、何と我々の今いる位置は丁度赤道直下の町なのだ。なのにこの寒さは一体どうしたことか。車に乗っていた間も四六時中寝袋にくるまって暖をとっていたくらいで、ここがアフリカのど真中だとは想像もつかない寒さである。折角直りかけていた風邪がまたぶりかえしてしまったようだ。こんな道端のような場所で夜を明かさなくてはならないかと思うと自然と心細くなってくる。庄司がコンロでお湯を沸かし、ナイロビで仕入れたインスタント・ヌードルを作ってくれる。それでも一向に暖かくならない。しばらくじっとして荷物を枕にして横になっていたら、ぐっすり寝てしまったようで、「キタレ!キタレ!」という声に飛び起きて、まどろみながら乗合いプジョーに飛び乗る。鼻水が出て寒気がして体調は最悪であった。

 朝まだき、除々に明けていく中、ようやくキタレの町に着く。着いてすぐにホテルを探す。最初見つけたホテルはよく見ると下がナイト・クラブだったのであわててキャンセルをして、そこからやや下った所にあるNEW KANBURU SILENT LODGEという看板のホテルに入る。ここは名前の通りSILENTなロッジで部屋も今まで泊まった中でも群を抜いてきれいなホテルで、シャワーをひねったら何とお湯が出てきて思わずワオーといって叫んでしまった。値段も二人で44シルとリーズナブルで一遍に気に入ってしまった。

 荷物を部屋に降ろし、早速昨日仕入れたコンロを使っての自炊生活に入ろうと言い出し、マーケットへ行って野菜を買いこんでくる。灯油や洗剤も探してきてホテルへ戻って支度にかかった。朝あんなに寒かったのに、昼はすっかり晴れあがり、からっとした暑さに逆戻りで、少々眠かった。お湯のシャワーを浴びて生き返った後、寝袋を干したり、鼻歌まじりで洗濯までやってのけた。こまめに働いた疲れからベッドに横たわるとそのまま寝てしまい、気がついてみると夕方近くになっていた。庄司はもう起きていて、一人でめしの準備をしている。何を作っているのかのぞいてみると、野菜をたっぷりいれたスープを作っている。その表情が何となく嬉しそうにしているので、当分炊事は彼に任せよう、と勝手に思ってしまった。

 私はやることがなくなったので、パンにつけるジャムを町中歩き回ってやっとの思いで仕入れてくる。今日の夕食はコーヒー、パン、野菜スープに果物という豪華なメニューとなり、久しぶりにたらふく食べてしまった。

 このキタレという場所は地図で確認してみても赤道から少し上の北半球にかかった町なのに、気温は昼夜を通して涼しいくらいだ。というよりナイロビを出発してからの気候は曇り空が多く、時折雨も降ったりしてぱっとしない。これまでの暑さが嘘のようだ。

 ホテルはきれいで快適なので、買物に行く他はあまり外へ出ることもない。自然と我々の行動パターンも実に簡素なものとなり、食っちゃ寝、食っちゃ寝の連続となった。その他の時間は将棋を指すかカセット・テープで音楽を聞くかのどちらかである。持参のテープの中でも途中、ドバイの空港で何げなく買ったジミー・クリフの“GIVE THANX”というテープを繰り返し聞いていた。このロッジの従業員のベンジャミンもお気に入りで、部屋へ入ってきて勝手にボリュームを上げて聞かせてくれとせがむ。すっかりジャメイカン・レゲエ・ミュージックとばかり思っていたものが、そのルーツともいえるアフリカの地方ですんなり受け入れられているのには驚いた。“Oh yea, Afirica, Meet in Africa, Beyond every boundary, black, yellow, red and white”まさにこの地にふさわしい内容の歌である。

 そんな音楽に浸りながら、今日は私が料理することになった。将棋で立て続けに3連敗してしまったからだ。庄司は途中激しい雨が降ってきたのも知らずにぐっすり寝込んでしまった。昨日の野菜スープに対抗して卵とバターを買ってきてスクランブル・エッグ&サラダとバターで揚げたパンというメニューにした。これが意外とうまく作れて、揚げ物の石川、スープ物の庄司というパターンがここから始まった。

 ホテルには難点がないのだが、只一つここで働いている掃除のママたちの騒音には参ってしまった。朝だろうが夜だろうがお構えなしに何だか訳の分らないことをがなりたてている。3人の中、一人を除いて英語が喋れないので抗議をしたり、話しかけても一向に通じない。反対にばかでかい笑い声とともに、からかわれてしまう。我々が自炊していると窓の外から顔を覗かせて、興味深そうにうかがっている。すると、その中の元気のいいママがポケットから2シリングを取り出して、これで私達にめしをくわせろと言ってみんなで又ばか笑いをしている。実に明るいママたちである。

 翌日も朝何度かママたちのほえる声と車の空ぶかしの音で目が覚めかけたが、結局10時過ぎまで寝ていた。私からやっと起き出して玄米茶を沸かす。いきつけとなった店で野菜や調味料を買ってきて、庄司が料理する番である。得意の野菜スープは新しい調味料でさらにおいしく感じ、あっという間にたいらげてしまう。しばらくぼーとしてたたずんでいたら、そのまま眠ってしまい、気が付いて時計をみると、4時をまわっていた。起きて食器を洗いながら次の食事のことを考える。あー、こんなただれた生活でよいのだろうかなどと思わずつぶやいてしまう。

 まだぐったりしている庄司をおいて、一人で買物に出かける。パンを買いたかったのだが、本日は日曜ということもあって、店はほとんどが既に閉まっていた。仕方がないので飯屋でチャパティを分けてもらって、持ち帰る。これが正解で焼きたてのまだ熱く、サイズもでかいうまそうなチャパティだった。

 それをちぎりながら食事をしていると、買物の際、知り合った近所の青年がジャンボ!といって遊びにやってきた。彼は日本という国の友達は初めてということでいろいろなことを聞いてくる。しかし彼ら(ケニヤ人)の質問は割りと画一的で、例えばよく尋ねられることに、日本人はいくつの言葉を話すのか、とか結婚する際、そのお金は男が持つのか女が持つのかなどということをよく聞かれる。この青年も同じようなことを聞いてきたので同じように答えておいた。話しが食べ物のことになって、チャイの作り方などを教えてもらった。それではジャパニーズ・チャイをご馳走しましょう、と言ってお湯を沸かし、玄米茶を作って飲ませてやった。彼の他、このロッジで働いているベンジャミンと、通称口裂け女と名付けた拡声器のような声帯をもったママさんも集まってきてこの得体の知れない液体を飲んでみることになった。皆一様に変な顔をしてお互いを見合った後、真っ先にその口裂け女が何やらがなりながらベンジャミンのカップの中に自分の残りを入れ、もう沢山だと言って立ち去った。人のいいベンジャミンは「この玄米茶は甘くないので飲めないのだ、砂糖を入れてくれ」と言う。今度は我々が顔を見合わせてから、えいやーとばかりに角砂糖を2個入れてやると首を縦に振って納得して飲んでいる。玄米茶に砂糖は意外に合うのかもしれないが未だに試しはしていない。庄司がそんなベンジャミンをつかまえて、あの声のでかい女はお前のかみさんか、と尋ねると、何故か腹をかかえて笑い出した。何か事情があったのだろうか、別のママさんも来て、しばらく大笑いとなってしまった。  そんな騒ぎの中、この近所の青年が帰る段になって、そういえば名前を聞いてなかったと思い尋ねるとジミーだという。おー、じゃあジミー・カーターかと冗談で聞いたらそうだという。本当?と言って何度も念を押したところ、どうやら本当にこの人、ジミー・カーターさんらしいのだ。アナザー・ジミー・カーターを知っているかい?と聞いたところ笑いながらうなづいていた。

 この晩は結局チャパティと玄米茶だけの夕食となってしまったが、彼らの去った後、みっちり将棋を4番指し、それまでの劣勢を挽回して久しぶりの4連勝を飾ってしまった。その後、明日トゥルカナの方へ行く件といつ帰るかでちょっと庄司とやり合ってしまう。庄司はモンバサで買ったトゥルカナ族の写真集がひどく気に入っていて、この秘境の地へ足を踏み入れたいと前々から言っていたのだ。早くここを発ってトゥルカナへの入口(ロドワー)へ行きたい庄司と、もうこの快適なキタレで十分だと思う私との考えの違いがここにきて噴出する。それに11日までにナイロビに戻らなくてはエアー・チケットのことが気がかりな私に対し、そんなのはなりゆきでよしとしている庄司との間には、帰りの日程においても随分隔たりがあった。こんな時は二人で旅行することのむずかしさばかり感じてしまう。お互い口数が少くなったのがよく分る。

 結局次の日のロドワー行きはペンディングとなり、10時過ぎまで例によって寝ていた。気が付いて起きてみると、庄司はどこかへ出かけており、庭先ではあの口裂き女どもが騒いでいる。そこへ昨日のジミー・カーター君が来て一緒に写真を撮ってくれという。そこでおしゃべり女たちも誘って撮ろうとすると、こういう時だけは恥ずかしがって近寄ってこない。やむなくジミー君だけ一枚撮って、もう一枚は強引に女軍団の前に行ってシャッターを切った。さぞかしすごい写真が撮れていることだろう。

 そんなことをしていると庄司が帰ってきたので遅い朝食兼昼食となった。玄米茶のパックの袋を再生していれたチャイが秀逸だった。その後は揃ってダウン。戸をたたく音で目が覚めたのが4時近く。ペサ、ペサと言ってあの女が入ってくる。今日の宿代の請求である。44シルジャスト払って追い返す。夜は今日、このロッジに車で着いたばかりの西ドイツの自動車教習所の教師とケニヤの道路状況の話しながらの食事となった。


以下次号へ。

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