TRAVEL ESSAY

マリンデの子供たちと。


今回がこの旅行のハイライトかもしれません。


ケニヤ旅行記(8)

1980年2月8日から3月18日まで

第8回 ラム島で一文無しに

 ラムに着いたのは朝の8時過ぎで、思っていたより海岸(船着き場)は汚いところで、それまでの町の原色のイメージに対して、灰色のイメージを感じてしまった。町に入っても路地の間が狭く、一見アラブの町いった印象であった。我々は一緒に着いたヨーロッパ人3人と同じケニアン・ロッジというところに案内されが、どうも今一つ気に入らない。海が見えないのが致命的で、他に2、3の宿を物色してまわるが結局、今日一日はケニアン・ロッジに泊まって、荷物を置いてからゆっくり他のホテルを探してみようということになった。

 シャワーを浴び寝袋を干していたら、一緒のバスに乗っていたヨーロッパ人の一人が遊びにやって来た。彼はスウェーデン人だということでもう1ケ月以上もアフリカを回っているとのことだった。連れの2人はスイス人でみんな旅行中に知り合った仲間だそうだ。彼らのようなヨーロッパからの貧乏旅行者(人のことはいえないが)はここケニヤでは比較的多くみかける。長い時間をかけてできるだけ安く旅行することが最大の手柄のような風潮がすでに我々の間にも生まれていた。お互い安旅の情報やエピソードを語りながら、明日はもっと安くていいホテルを探そうという考えでは一致していた。

 その後、ベットの上でメモでもとろうと思ってゴロっとしていたら、そのまま寝てしまい、気がついて起きてみると体と枕に出したままのペンのインクがおびただしくついてしまった。

 昼過ぎまで寝るとも起きるともつかずにだらっとしていると、腹が減ってきたので飯を食いにいく。行き当りばったりの店に入ってとったラムのランチはあまり満足のいくものではなかった。何より飲みたかったチャイが変な匂いで全部は飲みきれず、肝心の野菜(庄司があの屋台で食べて以来、お気にいりの“ンボガ”)もなく、どうもあまり食が進まなかった。気晴らしに海岸を歩いてみようということになって、ずっと海岸沿いの道なき道をホテルと反対の方角へどんどん歩いて行った。所謂ビーチと呼べるスポットがなかなか現れないまま、小一時間程歩いてさすがに疲れきってしまい、この辺で戻ろうよ、って言ったところ、庄司は一人で行ってくる、といってどんどん先へ進んで行く。木陰にたたずんでしばらく待っていると、はーはー言いながら戻って来て、一応ビーチらしいものはあったが、大したものではなかったと吐き捨てるようにレポートた。結局2時間近く歩いて、再び我々のロッジのある一角までたどりつく。

 途中、古びた城砦のような建物があってこれがホテルだったら泊まりたいな、などと話していたところが、実はそれは刑務所だったことが後で分って大笑いをした。夜の飯を近くのフリー・マーケットで買って、ロッジに戻る。ラムの夜はこれまでになく静まりかえっており、昼間の疲れでぐったりしていると、聴こえてくるのは遠くコーランを唱える祈りの声のみである。マリンディなどとは一変して島が全て眠ったような静寂に包まれている。ベランダにでて夜空を仰ぐと、ここも満天のスターダストである。星に関しては私よりずっと詳しい庄司先生に、あれが北斗七星だとか、南十字星はあれかもしれない、などとレクチャーを受ける。例えそれが間違っていても何だか満ち足りた気分にさせてくれる星の群である。これはきっと東京の生活では味わえないな、などと思いながら飽きるまで空を眺めていた。

 今日のノートにはアフリカへ来てこんなものを持ってくればよかったというリストを無作意に並べてみた。
1.国際免許証...これは結局持っていなかったことでいい目にあったが、持っていても損にはならないので次回は絶対携帯したい。
2.ウォークマン...これは弘を口説いてでも借りてくればよかった。特に飛行機の中の何と退屈なことか。
3.コッフェル...大小いろいろなカップの入ったもので、多少荷物になるが、あると圧倒的に便利であることが分った。
4.ガスバーナー...庄司がもってきた固形燃料より火力が強く、ナイロビのスーパーでもガスのスペア・ボンベは手に入るのでコーヒーを飲んだりする時には欠かせないものである。
5.水筒...これも沸かしたお湯をためておいたりするのに必要で、今回はこれなしの旅になってしまった。
6.帽子...日中はいわゆる麦藁帽子のような日除けが欠かせない。
7.折り紙...これは上野さんが持ってきて大好評であったのをみて是非今度は持参しようと思った。子供たちと仲良くなれるための小物として、こんなにもとでの要らない友好親善ツールは他には見当らない。
8.ハーモニカ...携帯に便利な楽器といったらこれにとどめをさすだろう。
9.ロウソク...これまで泊まったホテルからもらってきた唯一の貴重品となった。
10.磁石...正確な地図と磁石さえあればどこへでも行けると思った。
 結局、旅慣れてはいないうちは困ることの全てが発見であり、予期せぬ出来事への対応が旅の必需品ということなのかもしれない。そんなことを思いながら眠りについた。

 さて一夜明けて今日は2月18日。成田を経ってからちょうど10日目の今日、大事件に遭遇する。

  朝方、海の見えるBAHARI LODGEに居を移してしばらくここでのんびりしようかなどと思っていた矢先、これ以上のショックはないという盗難に会ってしまったのだ。それも、旅行者にとって絶対必要なものである、パスポート、現金、トラベラーズ・チェック、カメラ、その他証明書等を入れておいたバッグごとごっそり持っていかれてしまったのだ。だから、その前に庄司と賭将棋をして10ドル勝ったことや、このロッジのボーイのジョナサン(我々はかもめのジョナサンと名付けた)が遊びにきてマライカを歌ってくれたことや、その声につられて同宿のヨーロッパ人たちが我々の部屋に集まってきて一大パーティのようになってしまったことなどはみんな虚しい思い出となって消えてしまった。それはもう最大級のショックであるが、ここに詳しく再現してみる必要がありそうだ。

 ジョナサンたちが帰った後、私と庄司は夜10時頃までベランダに出て将棋をさしていた。それまでは互角の勝負をしていたのだが、この夜はいつになく奇襲戦法がさえて私の連勝で終った。庄司が多少ふてくされて、もう今日はここで寝るといってベランダにベットを出して、さっさと寝る体勢に入った。私は少し暑苦しかったが、ベランダ越しの窓を開け、部屋の中で寝ることにした。その際、貴重品などをまとめて入れておいたカメラ・バッグを手元の椅子の上に置いて、それまでは決して肌身から放さず首から下げて持っていたパスポート入れを暑さのせいで何げなくその中に投げ入れて寝てしまったことが事件の発端となってしまった。

 二人とも疲れていたのでぐっすりと寝込んでいたところ、夢の中で一度、庄司がライターがないといって騒いでいるような気がした。その後、今度は耳元で「おい!石川、起きろよ」という大きな声で起こされ、眠い目をこすりながら時計をみると12時45分だった。「おい!バッグがないぞ!」といっている声で初めて我に返り、がばっと起きて事の重大さを認識する。例の貴重品だけを入れておいた黄色のバッグが無くなっているではないか。この段階でもまだ盗まれたという実感はわいてこない。庄司が素早くジョナサンを起こして、島の警官を連れてくるまでの間、これは夢なのかもしれない、そんなことがあるはずはない、と狭い部屋中やベランダ付近を点検してまわった。しばらくして騒ぎが本格的になって、はじめてやばいことになったな、これからどうしたらいいのかという思いがこみ上げてきた。その後は呆然自失の有様だった。おそらく庄司が寝ていたベランダ越しに侵入して、バッグだけ持って逃げたのだ。それにしても二人とも無防備といおうか、最初から狙われていたようにも思え、警戒を怠ったことへの後悔の念でいっぱいだった。

 警官に状況を簡単に説明して、一応調書のようなものを取られる。その後、隣りのヨーロッパ人の部屋を調べたり、近所の人達に尋問したりした後、明朝、ポリス・ステーションへ出頭するようにと言い残してその警官が帰っていった時間は、もう夜中の3時をまわった頃だった。

 やっと落ち着いて庄司と二人で今後の善後策を話し合う。当面は庄司の持っている現金を借り、ナイロビまで戻り、そこで再発行の手続きをすればよいのではということになり、明朝、警察と郵便局へ行って、日本大使館とDo Doの遠藤さんに連絡することにした。しかし、自分の気持ちは、どうして今日に限ってパスポートの袋まで外してしまったのか、とか、せめて窓だけでも締めて寝ればよかったのになどといった後悔が次から次へと浮かんできて、まともな話しはできなかった。自然に気持ちが沈んでいくのをどうすることも できなかった。そんな中、庄司は例によって何くわぬ顔をしてまあ、どうにかなるさ、死ぬわけじゃないし、と言って励ましてくれる。こういう時は、彼の楽天的な対応が頼もしくさえ感じる。

 一夜明けて、明朝、昨夜の忌まわしき一件をポリス・ステーションへ行って供述するこになった。その途中、何と今回の盗難を裏付けるように、近くのごみ捨て場に盗まれたバッグが捨ててあったのだ。勿論、中の大事なものは全て抜きとられており、僅かに日本語の観光ガイドとポケット英和事典だけが虚しく中にとり残されていた。その残骸を持って、島で唯一の警察に入る。対応がスローで全然親身になって話しを聞こうとしない。全く心細い限りだ。一当り状況を説明した後、盗難証明書を書いてもらい、この証明書を持ってパスポートやトラベラーズ・チェックの再発行を申請しなさいとのことだった。

 その後、ポスト・オフィスへ行って日本大使館へ電話をかける。この国に来て電話をかけることは初めての体験だったが、事が逼迫していただけに、意外とすんなり用を足せた。たまたまそばで電話を待っていた日本人の女性がいろいろ心配してくれて話しかけてきた。実は彼女は我々と同じDo Do Houseに荷物を預けて一人で旅行している人で、明日ナイロビへ帰る予定だという。そこで彼女に頼んでDo Doの遠藤さんに手紙を届けてもらうことにした。このムツ子さんという女性はいろいろ話してみると、実に不思議な人で、英語もスワヒリ語もあまりうまくないのだが、現地の人とのコミュニケーションが自然と出来ており、その証拠にホテルではなく、普通の民家に泊まっているとのことだった。彼女が我々を励ますつもりでか、今晩、町の広場で映画を上映する予定なので行ってみませんか、と誘ってくれた。私はあまり気が進まなかったが、庄司が迷うことなく、「おう、いいですね。」といって夜会うことになった。

 ポスト・オフィスの前で待ち合わせ、彼女の友達の島の人を紹介される。「今日は何の映画をやるんですか?」と尋ねると、プログラムを見せてくれる。何とそれは日本製の映画で“史上最強のカラテ”と書いてあったのには笑ってしまった。早速、この島の人の後について足早に迷路のような路地の間をぬうようにすりぬけていく。イスラム教のこの島は、建物と建物の間の道が極端に狭くできている。そういえばこの島に入って先ず気がついたことだが、車が一台も走っていない。とても走れるような道がないからだ。そんな狭い道を暗闇の中、半ば駆けるように進んでいくのである。途中合流して人の流れができる程、混雑しているのだが、人も真っ黒なのでその気配だけしか感じられない。息咳きって、15分ほどで丘の上にある野外映画館に到着する。映画館といってもまわりをブリキの板で囲ってあるだけの広場で、星の見える映画館なんて生まれて初めてである。

 3.6シルを払って中に入ると丁度映画の始まる時間で、パッとあたりの明りが消え、観客全員が立ち上がる。ケニヤの国歌の合唱である。初めて聞くこの国に国歌にしばし聞きほれていると、いきなり訳のわからないインド映画の予告編を2本流してからカラテ・ムービーのはじまりである。空手の国際大会の一こまを交えたドキュメンタリー・タッチのこの映画は一度、日本で観たことがあった。そこで、現地の人達がどう反応するか興味深かったが、つなぎ方がばらばらで途中、何度も切れてしまって全く要領を得なかった。おまけに長い中断で客がブーブー言い出すと、つなぎにインドのいかがわしいダンス映画を流したりしてでたらめである。しかし、客は結構喜んでいるようで、特に日本の選手がすごい技を出したりすると、ワアー、といって素直に驚いていた。マリンディの子供たちが我々日本人をつかまえて、空手を教えてくれ、と言っていたのがようやく分ったような気がした。この国では日本人は空手の得意な民族として知られているようだ。

 結局、2時間ほどそこにいた後、のんびり11時頃帰ってきたら、ベランダのベッドに昨夜の警官がもう一人同僚を連れて、ジョナサンと一緒に我々を待っていた。一人犯人と思われる男を探し出したとのことで、今夜そいつが寝ているとき、部屋を調べて必ず逮捕してやると大変力強いことを言ってくれる。そこでインスタント・コーヒーをご馳走したりしてご機嫌をとってやり、頑張るようにお願いした。そしてもし、盗まれた物が戻ってきたら、おまえらにデジタル時計をやろうといって、唯一手にはめていて助かった腕時計を見せてやると、彼らも興味があったらしく、まじまじとその時計を眺めている。そしてもらうのは悪いから自分の今使っているものと取り替えようと言い出した。パスポートやカメラに比べたら時計の一つや二つ安いものだと思い、まだ他にもあげるから是非その犯人をつかまえてくれといって別れた。

 その後、しばらくして又この警官たちが一人のおびえきった男を連れてやってきた。この男が容疑者なので確認してほしいというのだ。しかし我々は犯人の顔をみていないのだから、例えこの男がそうであっても証言することはできない。そこで警官に盗まれたものは見つかったのか、と聞いたところ、それはまだだという。その男にスワヒリ語で何やらきつい調子で詰問している。おそらくこの警官たちはさっきの時計のことがあって無理やり犯人をでっちあげてきたのだろう。そう思うとこの男が可愛そうになってきて、この人ではないといってしまった。警官はがっかりしてその男を連れてまた帰っていった。

 もうこの時点で多分盗まれたものは戻ってこないなと直感した。それとともにどうせ一文なしなら、この後、気楽に旅行してやれという諦観が生まれてきた。これは庄司という相棒の性格に影響されたところも多かったが、アフリカに来て学び取った独特のテンポだった。ケセラセラ、なるようになれ、と一旦思うと人間、意外と陽気になれるものだと思った。

 夕べが遅かったせいで、次の日は10時半頃までグッスリと寝ていた。起きてコーヒーを飲むかわりにインスタント・ラーメンを食べ、又将棋をした。冗談で庄司から借りたお金をこの賭で返すんだ、と言ってやったら反対に14ドルまけてしまった。そこでもう一回、もう一回という具合に数を重ねていき、結局12回もやってしまった。お互いの力が拮抗しているため、いい勝負になることがこれだけ飽きもせずに続けられる理由なのかもしれない。

 夕方になって、初めて外へでてどこかで食事でもしようかと思いぶらぶらしていると、PIAの飛行機の中で会った、あのひげのアフリカ通の角倉氏に呼び止められた。彼は日食を別の場所で観測してから、ラムへ入り、阿部氏というこれも単独でアフリカ中を回っている広島出身の人と一緒にNew Century Hotel に泊まる手続きをしていた。例の盗難の件を話したら、Do Doの遠藤さんの電話番号を教えてくれ、いろいろアドバイスしてくれた。そこで角倉氏との再会を祝して、ラムで一番高級なレストランのSK CHAIというところでロブスターでも食べましょうということになり、7時半に待ち合わせて4人で豪華な食事となった。多くの白人客で賑わうこのシーフード・レストランで、アフリカへ来て初めて海のものを口にした。ロブスターともう一品、魚料理(フィッシュ・カレー)で一人40シルと安くはなかったが、庄司くんのおごりでバッと派手にやろうということになって、たらふく食った。金がない身分のくせに、一番贅沢なディナーとなったことを百戦錬磨の阿部氏が評して、「人生なんてそんなもんやで」と広島弁で言ってくれた。この旅行通の二人からラムの情報や他の見所をいろいろ仕入れて、満足して宿に戻ったのは10時近くになっていた。

 翌朝は早く起きて先ず彼らの泊まっているNew Century Hotel へいき、Do Doの電話番号を教えてもらってその場で電話する。異国の地で電話するという行為も旅の必須アイテムなのだが、必死に話すのでかけ終ったあとはすごく疲れる。遠藤さんが21日からサファリに同行すると阿部氏から聞いていたので、早目に連絡したのだが、やはり遠藤さんは出かけていていなかった。しかし、我々の盗難の件は、一足先に例のムツ子さんがナイロビに着いていて、そのメッセージが伝わっており、早速エアー・チケットの手配に回ってくれているとのことであった。かわりに電話口に出てくれた佐々木さんという人にトラベラーズ・チェックの方もよろしくお願いしますと頼んで、月曜日にはナイロビへ戻りますと伝えて電話を切った。

 その後、ニュースターというパブで阿部氏、角倉氏と会って電話の件を話したところ、その佐々木という人はまだ17、8歳で、高校を中退してアフリカ中を回っている恐ろしい若者で、もう2年以上も日本へ帰っていない奴だと教えてくれた。阿部氏曰く、「上には上がいるもんじゃのう。」ということだった。期せずしてこれまでアフリカで会った奇人変人を列挙する大会のようなものになってしまい、その場は大いにもりあがってしまった。

 ビールの心地よい酔いを残したまま、私と庄司はポリス・ステーションへThief Reportの訂正をしに出かけた。今後、パスポートより重要なものとなるこの一枚の紙きれに、エアー・チケットの項目がもれていたのだ。その一行を入れるだけなのに、えらく時間がかかってしまった。

 夜は阿部氏が自炊をするというので、少しばかり材料を買いもとめ、彼の手料理をご相伴にあずかろうと、出かけていった。久しぶりに野菜にありつける僥倖に、思わず小踊りしてしまう。はたして、その料理は十分に期待に叶うもので、にんじん、じゃがいも、たまねぎ等の入った野菜シチュウのようなもので、みんなで食べたせいか、非常にうまかった。又、パンもジャムをつけて食えたし、デザートにパパイヤがでて最後はコーヒーで締めくくるというフル・コースの食事であった。質量とも、これまでの旅行中最高のディナーとなってしまい、阿部氏に感謝することしきり。おまけに門倉氏からはケニヤの文化、政治状況等のレクチャーを受け、ラムに来て不運続きの毎日が嘘のように思えた。

 この際、門倉氏から地図ならこれに限りますよ、といって見せてもらったのが、ミシュランのロード・マップだった。タイヤ・メーカーだけに道のあるところはどこも非常に正確で、特にこのケニヤのバージョンは他と比べものにならないといって自慢していた。彼はこの地図のアフリカ版を全て仕入れて、それを広げてつないで、自分の部屋の天井に貼っている程だという。No.153が北、西アフリカ、154が北、東アフリカ、155が中央、南アフリカをカバーしているので、とりあえずこの3枚はあると便利ですよ、と教えられる。庄司が早速、ナイロビへ戻ったら本屋で買い求めようといっていた。

 満ち足りた食事に酔いながら足どりも軽く宿へ戻る。このBAHARI HOTELには実に多くの国からのツーリストが泊まっている。隣りの部屋にはアメリカ人が2人、オーストラリア1人、ニュージーランド1人の混合組。その隣りはフロム・イングランドのカップル。それに下は最初、一緒のケニヤン・ロッジに泊まったスイス人、3人組が入っていた。どうやらここがラムで一番安いホテルのようだ。みんな気安く話しかけてくれ、いい奴という印象だ。もっと英語が自由に話せたらより深いコミュニケーションがはかれるのにと思って次回は言葉の問題をクリアしてから旅行にでようとひそかに決意した。


以下次号へ。

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