TRAVEL ESSAY

マリンデのホテルで、子供たちと。


ケニヤ旅行記(7)

1980年2月8日から3月18日まで

第7回 マリンデにて日食体験

  マイクロ・バスは途中フェリーに乗って入り江を横断したり、白バイの警官に止められたりしたハプニングがあったりしたが、無事にマリンディまで走り3時半頃には目的地へ着いてしまった。バスが着いたところはバザールの中心部のようなところで、露店で果物や衣料品を並べて売っていた。早速バスの運転手にこの辺で安いホテルはあるか、と尋ねたところ、この私を指さして、「お前だけ来い」と言って空のバスに乗せてくれ、そのバスでわざわざ紹介するホテルの前まで連れていってくれる。庄司と荷物をそのバザールに残して、そろそろとバスが動いてすぐ裏手のLamu Hotel という安宿に案内してくれる。こういう面倒の見方は信じられないくらい親切で、何も要求せずに親身になってくれる。こういう時こそチップをあげるべきだと思い、3シルをやってそのホテルに入り値段の交渉をしてまた庄司の待つバザールまで戻る。その際も、バスは表で待っていてくれ、その後の荷物の運搬まで手伝ってくれた。丁重にお礼を言ってそのマイクロ・バスに手を振って別れホテルに入る。

 ここの主人は金にうるさそうなインド人で下が食堂、2階がホテルというお決りの作りで、これは食事には困らないなと思った。町の行楽街の中心といった位置で、通りを隔てて前がナイト・クラブで、すでに陽気な音楽が流れ、賑わっている。二人で45シルということで、シャワーもあり、部屋もそんなに狭くない。荷物を置いてすぐにシャワーを浴びて出てくると、隣りに泊まっている南方系の太ったおやじが気安く声をかけてくた。でかパン一つに首にタオルをかけて、どこから来たのか、とか下の食事はうまくないとかいろいろ親切に教えてくれる。モンバサから来てしばらくここに滞在しているらしいが、地元の人ではないようで、さっきから我々の荷物をそれとなく点検している。なんか、いやな奴だなと思ってあまり相手をしないでいたら、突然私が持っていたボール・ペンをくれというのだ。冗談じゃない、やるものかと思って断ると、以後あまり近寄らなくなった。

 シャワーを浴びて少し生き返った気持ちになって、ついでに服も洗い、通りに面したベランダに寝袋と一緒に干した。しばらく部屋でたたずんだ後、ちょっと町へ出てみようと庄司が言い出し、二人して海のある方角へ行ってみる。インド洋の海水に触れるのは勿論初めてのことで、海水浴をするにはちょっと波が高く、危険な気がしたので砂浜でボケーっとしていた。

 その後、町をぶらぶらしたのだが、この町は完全な観光地で、ヨーロッパ、アメリカから余裕のある白人たちがリゾート地として訪れるようで、やたら白人ツーリストが多いことに気付く。物売りも多く、幼い子供まで我々観光客を見かけると寄ってきてみやげものを売ろうとする。だから、町の人々もマガディのように純朴な感じがなく、みんな観光客にたよって生きているように思えてくる。さしずめここは日本でいえば熱海や伊東のようなところで、観光で生計を立てている家が多いようだ。この町で明日、本当に今世紀最後の皆既日食が見れるのかと思うとちょっと不思議な気持ちにさせられた。

 宿に戻って早目に眠りに入ろうと思ったのだが、これが甘い考えであったことが夜中になって分った。それまでは陽気な音楽と思っていた前のナイト・クラブの騒がしさは半端なものではなく、まるでディスコの中で寝ているようだ。音楽だけでなく、人々のどなり合う騒ぎ、車のクラクションの音など静まるところを知らない。ちょうど小津の映画『東京物語』の中で笠智衆と東山千栄子の老夫婦が子供たちのおかげで温泉に行かせてもらったものの、まわりの喧噪で眠れない場面があったことを庄司に話して聞かせたのだが、そんな生やさしいものではなかった。枕で耳を押えてみたり、ベッドの上でため息をついたりして、ついには「うるせー!いい加減にしてくれー」とどなり合うこと数回で、安眠とは程遠く、おまけにダニのような虫がいて足や手をさされ、かゆくて起きだし、薬を塗ったりしてまんじりともせずに一夜を明かした。

 翌朝の朝食は下からパンとおかずを買ってきて部屋で簡単に済ませ、寝不足でぐったりしていると庄司がもう一階上に泊まっている子供を3人連れてきた。その兄妹といろいろ話しをしているうちに、何か歌を歌おうということになり、持っていたテープ・レコーダーで録音する。はじめは恥ずかしそうに小声で歌っていたクリストファーという名の男の子も次第に調子がでてきて、彼の妹たちも加わってケニヤの歌、”ハレルヤ”を一生懸命歌ってくれる。後ですぐリプレイして聞かせてやると、初めて聞く自分たちの声に体をくねらせながら喜んで笑っている。まだ他の歌も歌えるよ、と言って今度は次から次へと別の歌を歌おうとする。私は持っていたハーモニカでその伴奏をすると、それを奪い取って実にうまく吹いてしまう。彼らはすっかり我々になついてしまったようだ。

 そんなことをして遊んでいると、このホテルで働いている青年が上がってきて、ヘイ、もうすぐ日食が始まるよ、と言って知らせにきてくれた。まだ昼前なので安心していたのだが、あわててカメラを手にとってベランダのところから太陽を仰ぎみる。その青年の持っていたボール紙とセロファン紙でできた手作りのメガネで太陽をみると、確かに日食は徐々に始まっていた。しかし、外はうろこ雲のような雲が多く、肝心の太陽もその雲に隠れてしまうようだ。しばらくベランダから下を通るマリンディの人々の表情などを観察していたが、ところどころで2、3人集まっては手作りメガネで太陽を覗いている。みんなこの日が何の日かよく知っているようだ。そこで私は庄司を残してクリストファーと一緒に海岸へ行ってみた。既にその途中からあたりはぼんやりと暗くなってきた。クリストファーにいろいろ日食のことを質問してみたのだが、こちらの英語がでたらめなのか、あんたのいうことはよく分らないよ、って言われてしまった。

 駆け足で海岸までたどりつくと、あたりは一気にかき曇り、完全に太陽が月によって消えてしまった。その瞬間を逃すまいとカメラを上に向けて、真っ暗な空にフラッシュをたいて写真をとる。海岸には地元の小学生も集団で見にきており、写真を撮っている私を見つけて、その写真を送ってくれといって話しかけてきた。みんな少し興奮しており、中にはお祈りをしている子供もいた。ほんの2、3分して、今度は徐々に陽光がもれ始めると、何と一緒にこの様子を見ていたクリストファーがヘイ、ヘイといって手をたたきながら歌いだし、小踊りして私の回りを回りだしたのだ。それは先ほど歌った童謡とは全く違うゴスペル調の荘厳な歌であった。そう、ここはアフリカの地方都市でここに住む人達の生活の規範は自然と宗教なのだ、とこの時強く感じた。普段より、そのどちらにも縁がなく暮らしてきた自分の生活が何かとてもちっぽけなものに思えた一瞬の出来事だった。

 その内、もう一人の男の子が寄ってきてクリストファーに日食の原理を説明し出した。この中学生によると、日食をみるのはこれで2度目だということだった。よく聞くと、1973年にも部分日食があったらしいのだ。日食という超自然現象はアフリカの子供にとってはどう写るのだろう、と思っていろいろ質問してみたのだが、難しい話しはお互いよくコミュニケーションがとれない。ただひとつ分ったことは、この地方の宗教はキリスト教よりイスラム教の方が浸透しており、イスラムの世界では太陽を中心に考えてはいない、ということだった。

 しばらく日食の話題で盛り上がって、海岸をぶらぶら歩いた後、チェック・アウトのためホテルに戻って荷物の整理をしていた。するとベランダで洗濯ものをとりこんでいた庄司が突然、「あ、上野さんがいる!」といって叫んだ。え、と思って外の通りを覗いてみると、まぎれもなくあの彼女が歩いていた。例によって現地の人と親しげに、歓談しており、合図をするととてつもなく大きな声をあげて二階まで上がってきた。マリンディに来る途中知り合ったというケニア人の友達を一人連れ、あの明るい調子で部屋まで入ってきた。そこで再会を祝し、別れてからのそれぞれの苦労話しを語り合った後、一緒に町まで出て昼食をともにする。ここでもスワヒリ語の達者な上野さんはレストランのおやじをつかまえて、日食の話しやら、我々の紹介やら陽気に振舞っている。食事の注文に戸惑っている私を後目に、庄司はすかさず厨房へ入っていき、料理の鍋を指さして、これとこれといって帰ってくる。このあたりのやりとりにはついつい感心してしまう。

 上野さんとその友達を入れて4人で騒がしい食事をとった後、庄司と私は3時頃出発するというラム行きのバスに乗るため、荷物を一旦昨日上野さんが泊まったというユース・ホステルに預けてまた海を見に行くことにした。3時発となっていたバスは夜8時過ぎの出発に変更されており、庄司がどうしてももう一度海が見たいと言い出したからだ。静かな潮騒を聞きながら、少し昼寝でもしようかと思ってビーチの真中に寝そべっていたら、サッカーをして遊んでいた子供たちが集まってきていろいろ話しかけてきた。ジャパニーズ・カラテを知っているか、とかブルース・リーの真似をしてくれとかとにかくうるさい。ゆっくりさせてくれよ、と念じながらも適当に答えていると、彼らも珍しいのか我々のまわりを離れようとしない。そのうち何かの拍子から、庄司が「お前ら、マライカって歌知ってるかい?」と聞いたところ、例の空港の送迎バスの中で聞いた曲と同じ歌を歌い出した。そこであわてて録音すると、またそれが珍しかったらしく、入れ替わり別の子が前に出て一生懸命歌ってくれる。他にもコーランをスワヒリ語、ソマリア語(この地域はむしろソマリア系の人種が多いことが後になって分った)、英語の3ケ国語で歌ってくれたり、とても人なつっこい子供たちだった。一緒に写真を撮ったり、ペンパルになってくれとせがまれたりして、それは賑やかな一団になってしまった。そこへ海岸の近くの高級ホテルに泊まり移っていた上野さんがやってきて、更に盛り上がってしまった。結局、日の暮れるまでこの子供たちと一緒に海岸で時間を過ごしてしまった。

 その後、我々の泊まったホテルのそばのバス・ターミナルのとなりで夕食をとり、上野さんに別れを告げてバスに乗り込んだ。8時半頃の出発と聞いていた情報は概ね確かで、9時前にはバスはごく小数の客(我々2人と白人3人に黒人1人)をのせ走り出した。

 闇夜の中、車内も真っ暗のまま、おんぼろバスはあたり構わず物凄いスピードでとばす。マガディのバスといい、この国には到底スピード制限なんてないようだ。しかし、走る道は舗装はおろか砂利と穴ぼこだらけのひどい道なのだ。その揺れ方といったら常軌を逸している。でこぼこ道を猛スピードで走るとどうなるかというと、体が一瞬浮いてしまい、またその反動で戻され、激しい時には上の荷台にもろに頭をぶつけてしまい、ボコっとかわいいこぶを作ってしまう程だった。

 しかし、人間の慣れというものは恐ろしいもので、そんなバスに2時間も3時間も乗っていると、その中で居眠りなどし出したりするのである。両手で前の座席のレバーをぎゅっと握り締め、腰を半ば浮かせてショックを和らげるようにして眠るのだ。つまりあたりは暗いし、騒音はびどいし、揺れは激しいので他にすることがないのである。

 バスはノンストップで一気にラムまで走るのかと思いきや、何の前触れもなく、急停止する。何やら運転手が外を見て客と話しをしている。どうやら、インパラ(鹿の一種)がバスにぶつかって倒れているようだ。こういう時はどうするのかと窓越しに様子をうかがっていると、懐中電灯を持って、その死骸を運転手ともう一人の客とで回収しにいった。おそらくケニヤでは、国立公園に限らず、動物に対しては何らかの規制があるのだろう。

 再び揺れの責苦に戻ってから次に止まった所は小さなフェリー乗り場の前で、何だか訳の分らないまま、全員が降ろされた。バスをその渡し船に乗せて、太いロープを引っ張って向こう岸まで運ぶのだ。眠い目をこすりながら、ない力を振り絞って5分程で対岸へ着く。回りの景色が分らないまま、真っ暗の中での作業はどこか修行僧のように思えてくる。今、ここはどこなのか、我々にはさっぱり分らない。このまま夜中をかけて走り続けるのかと思って、開き直って後ろの座席へ行って、寝袋を取り出して横になっていると、バスはどこかの村の広場へ来て忽然と停止する。何の説明もないまま、エンジンまで切られる。運転手はさっさと空いている座席を占領して寝てしまう。「ここで泊まるの?」と同乗の白人たちに聞いてみても、両手を上に上げてI don't know.である。ここで一夜を明かすつもりなんだと思って、虫さされ止めのスプレーを体にかけて寝袋の中に入った。

 ブルルーン、というエンジンの音で目がさめ、時計を見ると夜中の3時50分だった。ここへ着いたのが12時半頃だったのでわずかの仮眠しかとっていない。乗客の誰もがもう好きなようにしてくれという感じで諦めきっている。バスはまた別の村に立ち寄って、何人かの村人が乗ってくる。そしてどこへ行くとも分らないまま、いくつかの村を経由して海岸のフェリー乗り場まできて降ろされる。どうやらここがラム行きのバスの終点のようだ。あたりはまだ薄暗くてあまり様子が分らない。ここからせいぜい20人位しか乗れない小さな船に乗ってラム島へ向う。眠い目をこすりながら日の出を見たのはこの狭い船の中からであった。

=以下第8回分へ=


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