TRAVEL ESSAY

My First Trip Is Kenya


ここでは私の1980年2月に出かけたアフリカ旅行の記録を連載してみます。


長い文章なので要注意!

ケニヤ旅行記

1980年2月8日から3月18日まで

第1回 ある決意

 何か新しいことを企てるきっかけなんて他人からみれば実に他愛ないことなのかもしれない。もう今から35年ほど前の記憶の彼方に埋もれてしまったエピソードだ。大学時代の親友の住む地方を訪ねて、その彼に案内されて車でドライブした際のことだった。

 東北は会津の里、喜多方という、今ではラーメンと蔵のある街で有名なこの地を、5月の連休を利用して観光に行き、その友人の店(桐工芸品の老舗)のライトバンで近郊の景勝地を案内してもらった。猪苗代湖畔から磐梯山を結ぶゴールドラインという道路を走っていた時、私は久し振りに自然の香り漂う車中で、大分気持ちが和んでいたせいか、不図口をついて出た言葉がそれだった。「おい、庄司、今度どこか海外旅行にでも行こうぜ」と私が言い出し、それに庄司が「おう、行こう、いつか絶対にな。」と呼応したのがそもそもに始まりだった。この庄司という友人は大学の頃から沖縄やインドへふらっと行ってしまい、なかなか帰ってこないという放浪癖のある男で、彼にとっては海外旅行なんて別段思い切った決断でもなかった。しかし、それまで海外はおろか、国内旅行もあまり行ったことのない私にとってはかなり意を決した提案でもあった。いや、むしろ現在は家業を手伝ってはいるものの、根は自由なトラベラーであるこの友人に、実現性の薄い旅行の話しを持ちかけることによって、おまえには無理だよ、にべもなく否定されることになると思って発した提案だったのかもしれない。

 その時は海外旅行の話題はそれっきりで終わってしまったが、私の中では繰り返し考えてしまう妄想になってしまった。そこで以後彼と顔を合わせれば、半ば挨拶のように旅行の話しをどちらからともなく持ち出すようになった。庄司はどうだったか知る由もないが、私はこうした指差し確認に次第に拘っていった。いつかどこかへ旅立つんだ、という思いを飴玉をなめるように心の中で転がしながら「さて、どこがいいか」とか「おまえいつ休みがとれるんだ?」などと言い続けた。

 これがやがて周囲の人々の耳に入り、「あいつら旅行に行くらしいよ」ってことになり、いつの間にか計画が一人歩きするようになってしまった。「おい、おれら、やっぱり旅行しなくちゃいけないみたいだぞ」ということになり具体的な計画になってしまった。今から思うとそれは多分に相手がいるという制約に基づいた消極的なモチーフだったように思える。だから候補地にはさして拘ってはいなかった。とりあえず私の頭の中には"シルクロード"というデスティネーションが先ず浮かんだ。"エジプトのナイル河下り"なんてのもいいなと思った。そんな思いつきのコースを想定してプランを練ってみたのだが、いづれも経費と時間に無理があり没となってしまった。だがこういった勝手気ままな計画を話し合っている時が一番楽しい時間で結構盛り上がってしまった。その後、何度か協議した結果、たまたま庄司の知っている旅行代理店が近くにあり、そこがアフリカ専門の旅行業者であったことからケニヤという国が具体的になった。そう一旦決めてからも、帰りにインドへ寄ることや、タンザニアから陸路でケニヤへ入るコースなども検討してみたのですが、結局ケニアのナイロビへ一年間のオープン・チケットで入り、後は成り行きでいいじゃないの、ということになり話しがまとまった。

 いざ、話しが決まり、目黒にあるドゥー・ドゥー・ワールドという名の旅行代理店へ行って細かい打ち合わせに入った。ここの社長の熊沢さんという人は見るからに温厚そうな物腰の方で、割とアバウトに物事を決めていく。「言葉は英語以外しゃべれなくても大丈夫なんですかね?」って尋ねても、ニコニコしながら「あー、全然問題ないですよ。まあ、スワヒリ語も知っていると便利だけどね」といった調子で実におおらかな方だ。そこではじめてスワヒリ語なるものの存在を知る。そのオフィスにスワヒリ語の専門家とおぼしき池田さんという女性から簡単なレクチャーを受け、こんにちは=ジャンボでさようなら=クワヘリだなんてことを教わる。熊沢さんからは、今回は丁度ツアー中に日食が観られますよ、と聞かされ、思わず「ラッキー!」と叫んでしまった。

 その後、ケニヤ大使館へ行ってビザを取ったり、パスポートの申請、予防接種、トラベラーズ・チェックの作成など旅行手続きに忙しい毎日となった。新たに旅行用のリュックも購入して準備が進むと、自分でも不思議とある決断のようなものが生まれてきた。大したことではないが、きっとこの旅行の成果は自らの人生の中でも大きな意味を持つにちがいないと思うようになった。

 出発前夜、用意した荷物をうまくパッキングできないまま、庄司の弟が住んでいるマンションへ行く。飛行機が朝早い時間の便なので、上野の近いこのマンションに泊まって、一緒にタクシーで上野駅まで行くつもりだった。初めての海外旅行なので、何を持っていったらよいのは見当がつかず、あれもこれもと詰め込んだものだから、リュックは当然はちきれんばかりのものになってしまった。その重いリュックを担いで、山手線の電車に乗り込んだ姿が我ながらオーバーで少し滑稽だった。しかし、この重さが向こう一ヶ月の旅行の何を予感していたのか、この時は知る由もなかった。この時点ではまだ漠然とどこか遠くの国に行くんだという思いだけで、空想の地、アフリカへ行くという実感はわいてこない。本当にこのゴミゴミした喧噪の都会を離れて、野生動物のうごめくアフリカ大陸へ辿りつくのだろうか、と半ば半信半疑であった。

 庄司のところへ着いて荷物を点検してみる。一つ忘れ物に気付く。琺瑯びきのコーヒー・カップが見当たらない。まあ、大した物ではないが、画龍点晴を欠くともいおうか、何だか落ち着かない。それをみた庄司が、どうして必要ならパキスタンあたりで買えるい、と言ってくれる。そうだな、と思って彼の荷物を見ると、実にすっきりしている。リュックは登山用の使い古したものだが、明らかに自分の荷物の方が重くて大きい。何が違うのかと思って比べてみると、なによりも自分の方が衣類が多い。庄司がちょっと呆れ顔で私の荷物の中身を点検していく。もう自分のリュックは満杯なので、共同で使用するつもりの薬や食料品等は、彼が持っていくことになった。カメラやテープ・レコーダーは、別に持ってきたカメラ・バッグに詰めこんでパッキング完了である。夜は庄司の弟を交えて、ささやかな夕食をとり、ゆっくりとテレビでも観ながら寛いでいた。明日は、朝早いので十一時には寝ようと思い、庄司たちを残しさっさと寝てしまう。翌朝、五時にセットしておいたテレビの目覚ましで、意外にすんなり起きられる。身支度をして、五時半頃マンションを出てタクシーを拾う。朝早いせいか、外はまだ真っ暗である。上野までのタクシーの運転手は夜勤らしく時々居眠りをするのには参ってしまった。極力会話を心けようと思い、必要外のことを話しかけ、何とか無事に上野までたど着く。下りてから、二人して「こえーなー」を連発する。京成上野駅には定時前に着いてしまい余裕を持って成田直行便のスカイライナーに乗り込む。空港まで一時間足らずで着いてしまい、思い入れたぷりの小旅行がこれから始まるというのに、この段階でもまだ外国へ行くという実感が不思議と湧いてこない。

 早目に空港に入って、先ず我々はドゥー・ドゥー・ワールドの指定した待ち合わせ場所を探す。早くも熊沢さんが来ており、同じフライトの旅行者と思われる女子大生らしき二人組にいろいろ注意を与えている。庄司はかつてインドにも行ったこともあり、海外旅行のベテランに思われているので、熊沢氏はとりたてて何の確認もせず、軽い冗談を飛ばしてリラックス・ムードである。おまけに、旅行者リストなどを渡され、「石川さんと庄司さんにこのリストを預けますから、カラチまでグループの面倒をみてもらえませんか?」なんて頼まれてしまう。しかし、この私は今回、海外はおろか飛行機に乗るのも初めてという全くの旅行素人なのだが、変に落ち着いてしまって「オーケーです」なんて答えてしまった。

 三々五々、同じ便の旅行者が集まってきて、簡単な自己紹介が始まる。我々は荷物のチェック出しをするのにも、のんびり構えていて旅慣れた旅行者風情である。そんな態度をみてとられたのか、一人別のグループの旅行客からPIA(パキスタン航空)のフライトについて尋ねられる。この人にもさも分かったような顔をして説明してあげる。今回のツアーはいわゆる団体パック旅行ではなく、フリーの人たちが寄り集まって同じ便をりようするというもので、ケニヤのナイロビまでは、一緒のグループとして動くことになっていて、その後はそれぞれ別行動というアイテナリーを渡されていた。その臨時のグループの人たちがほぼ全員揃い、各自の荷物チェックも終わったところで熊沢氏からチケットをもらう。

 まだしばらく時間があったので、グループの人何人かを誘って、ロビーのカフェテリアでコーヒーを飲むことにした。この人たちとは最初の日だけトランジットの関係でパキスタンのカラチのホテルに一緒に泊まることになる話題から話しが始まる。一番しっかりしていそうな上野さんという女性に熊沢氏はみんなの宿泊代を預ける。そこでいろいろ聞いてみると、みんなアフリカ旅行かなりのベテラン揃いである。この上野さんという人も、もう5回目のケニヤ旅行で、今回はサファリ・ツアーに参加してみたいと言っている。その中でも一風変わった服装の女性などは、マダガスカルとタンザニアの間にあるコモロ・アイランドという島へ永住しに行くとのこと。その他にも、アジア・アフリカ学院でスワヒリ語を勉強し、ケニヤを一年間程回ってみたいという学生や、ナイロビからセイシェルに行き、スキューバ・ダイビングをしてみたいという女子大生カップル等々、皆相当のつわもので、一番知ったかぶっていた我々(時にこの私)が一番の素人であった。

=以下第2回分へ続く=


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