1999年2月22日更新

初心者のための落語塾です。

随分間隔が空いてしまいましたが、『落語塾』というタイトルでお送りする落語の話題です。第3回目のテーマは「落語の名人の系譜」というものでしたね。あんまり間をおいたので忘れてしまいました。それではいってみましょう。


落語の名人の系譜



落語の名人というと我々初心者には先ず五代目古今亭志ん生、八代目桂文楽、六代目三遊亭圓生という昭和の三名人が思い浮かびますが、実際は明治、大正の時代から伝説的に語りつがれてきている名人と呼ばれる噺家はいろいろいたようです。それらの高座を聞いたこともないのに知ったかぶりをして紹介するのも気が引けますので、本日はテキストとなっている「落語塾」の講師連、保田武宏、橘左近、柳家小満んさんのお三方の鼎談に解説を加えたものを中心にお話ししてみましょう。

先ず東京に限って睥睨してみますと、明治8年前後に、三代目麗々亭柳橋を長老として柳派、三遊派の二大流派の流れが定まった時期が落語が大衆演芸の中心になった時期のようです。その後、三遊派の総師、初代三遊亭圓朝、柳派の代表、初代談州楼燕枝という名人の創始と呼ぶに相応しい人物が登場し、落語の発展に大きく寄与したとされています。特に初代三遊亭圓朝の存在は大きく、多くの人情噺を創作し、優れた門弟も育てた功績は誰もが認めるところです。現在でも八月十一日になると谷中で圓朝忌が催されているくらいですからこの人をもって近代落語の祖というのもうなずけます。本日はこの方の紹介は省きますが初回の復習も兼ねて、明治期の大家として三遊亭圓朝という人がいた、ということを覚えておいてください。

その後、この三遊亭圓朝門下に四代目三遊亭圓生二代目三遊亭圓橘(えんきつ)初代三遊亭圓遊などの逸材が輩出するのですが、その中にあって四代目橘家圓喬を本日の名人列伝で取り上げてみましょう。それとその門下から次の代の名人、初代三遊亭圓右を、また、柳派からは三代目柳家小さんを明治・大正にかけての三名人としてスポットを当ててみます。この選定は上記の鼎談に準拠しています。

●四代目橘家圓喬(1865―1912)から説明しましょう。
元治2年、本所松坂町のつづら屋の倅として生まれ、八才の頃から朝太という名前をもらってその早熟な才能を発揮したのですが、仲間内からは生意気だと評判がよくなかったようです。その後、四代目三遊亭圓生の引き立てで圓喬名を襲名してから長編人情噺や三題噺、上方系の噺に至るまで多芸を誇っていました。
落語に造詣の深い小説家、小島政二郎をして「圓喬よりもうまい落語家はいない」と言わしめた名人で、その語り口は誰も真似のできなかったもののようです。六代目圓生も「自分が聞いた噺家のうちではっきり名人といえるのはこの四代目橘家圓喬ただ一人である。」と絶賛しているいろところをみるとやはりこの人の技量は抜きんでていたと思われます。
晩年はあの「お富さん」で知られている玄冶店(げんやだな)に住んでいたことから俗に「住吉町の師匠」と呼ばれていました。四十八才という若さで夭折していますが「鰍沢」「双蝶々」「牡丹燈籠」といった大作を得意とし、いづれも絶品とされています。(このあたりは聞いたことがないので他人の受け売りでしかありませんが。)
こういった明治期の名人の噺しは現在ではほんの一部のSP盤のレコードで聴く以外は速記本でしか知るすべもありませんが、私の受講している落語塾のCDでは四代目橘家圓喬の「二人ぐせ」の一部が収録されています。(また私の所有している「落語名高座全集」という13枚組みのレコードでは「付焼き刃(半分垢)」を流暢な関西弁で聴くことができます。)当時の録音ですので雨が降っている中で演じているような大変状態の悪い録音ですが、名人の語り口の一端を垣間見ることはできます。

●初代三遊亭圓右(1860―1924)の話題です。
本名沢木勘次郎、三遊亭圓朝の囃子方をしていた伯父に連れられて寄席に通ううちに高座へ上がるようになり、弱冠十三才で二代目三遊亭圓橘門下に入門しています。圓橘といえば圓朝の愛弟子に当る人なのですが、この圓右という人は自分は圓朝門下の出身といって、圓橘の弟子であることを絶対に言わなかったという変り者だったようです。
その後、圓朝から直接芝居噺を習い、二十四才で真打圓右と改名しています。人情噺と芝居噺に長けており、特に「唐茄子屋」と「火事息子」が十八番だったようです。明治の後期から大正にかけてが最盛期で四代目橘家圓喬、三代目柳家小さんと張り合っていたのでこの頃の三名人の一人と呼ばれているようです。大正十三年に圓朝の二十七回忌に際し、二代目圓朝を襲名する運びとなったのですが、折りからの風邪をこじらせ肺炎を併発し病床での襲名披露となり、そのまま息を引き取ってしまったのです。ですからこの圓右という人は幻の二代目圓朝ということになるのでしょう。
この落語塾のCDではSP盤の収録から「三人旅」を聴くことができます。(もう一つのレコードでは「鍋草履」を演じています。この録音は大正十三年一月のもので、圓右最後の録音として大変貴重なものです。)


●三代目柳家小さん(1857―1930)の話しをしましょう。
夏目漱石は彼の有名な小説、「三四郎」の中で書生の口を借りてこう小さんを評しています。「小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものじゃない。何時でも聞けると思うから安っぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じうして生きている我々は大変仕合わせである。今から少し前に生まれても小さんは聞けない。少し後れても同様だ。」
大変な賛辞を寄せられている三代目柳家小さんは武門の家に生まれました。初めは常盤津(ときわず)の語り手で和国太夫と名乗っていましたがひょんなことから土橋亭志ん馬(どきょうていしんば)のピンチヒッターで高座に上るようになりデビュー、その後一時噺家を廃業したのですが再び復帰し二代目禽語楼小さんの弟子として小三治の名前で売り出すようになりました。
常盤津の出身から音曲入りの噺も得意とし、幅広い芸風でその実力を如何なく発揮し名実ともに名人といわれる存在に収まったのです。小さんは酔っ払いの噺を得意としていましたが、自らは一滴も酒が飲めず、常に他人を酔わせてそれを観察して自分の芸の参考にしたということです。
日常においても大変な人格者だったようで、昭和の噺家の多くはこの師匠の門下で指導を受けたということで優秀な弟子も多かったのが特徴だったようです。しかしそんな人格者であっても晩年はぼけてきてしまい、支離滅裂な高座をしたり、徘徊を繰り返して新聞沙汰になったりしたようで何とも考えさせられるエピソードが残っています。
小さんの実録としてはこの落語塾では「粗忽長屋」をやっており、その流麗な語り口の一端を鑑賞できます。また彼の代表作ともいえる「うどんや」ももう一つのレコード音源で聴くことができます。

この三人の名人を輩出させた時期と前後して、一方では第一回の『落語の歴史』の項で触れた珍芸四天王の出現などがあって、落語界は一時期ナンセンスものが流行った頃もありました。その反動で明治三十八年にできたのが正統派の流れを汲む落語研究会で、圓喬、圓右、圓蔵、小圓朝などが中心になって本来の古典落語に立ち返って活動していくことになるのです。
その後落語という演芸はラジオ、レコード、ホール落語というメディアの変化と広がりによってより大衆の民芸へと進化していくのですが、そんな中から我らのヒーローである志ん生、文楽、圓生という昭和の名人の時代へと引き継がれていくのです。

本日は落語の名人の系譜というテーマで明治・大正にかけての三名人を中心にご紹介しましたが私が選ぶ昭和の三名人の出し物ベスト3を独断的に紹介してお開きとしましょう。異論のある方もおられると思われますが、あくまで自分の判断で選んだベスト・スリーですのでお間違えのないように。この他にも優れた噺が沢山あるのがこの三人の特徴でもあるのです。


●五代目古今亭志ん生(1890 - 1973)

ベスト3は以下のものです。 「黄金餅」「唐茄子屋政談」「お直し」

●六代目三遊亭圓生(1899 - 1979)

ベスト3は以下のものです。 「双蝶々」「寝床」「小言幸兵衛」

●八代目桂文楽(1892 - 1971)

ベスト3は以下のものです。 「船徳」「明烏」「富久」



さて、第3回目の名人の系譜はいかがだったでしょうか。次回は落語の世界ー時代背景というテーマでお話ししてみたいと思っています。出来るだけ早いタイミングでやりたいと思っておりますがいつになるかは未定です。それではまた次回、お後がよろしいようで。


第1回目の『落語の歴史』はこちら、第2回目の『落語の構成』はこちらです。尚、古い情報で恐縮ですがこれまでに古典落語の話題を取り上げたものはこちらにまとめてあります。よろしかったらこちらもご覧ください。