NHK FMラジオ番組、大瀧詠一の『アメリカン・ポップス伝 2013 Part 4-1』の放送メモ・ページです。

放送日:2013年8月13日


注)2014年3月にNHK FM放送で始まった大瀧詠一さんの『アメリカン・ポップス伝』という啓蒙番組でしたが、惜しくも志し半ばにて終了してしまいました。この番組にどれだけアメリカン・ポップスの変遷を教えていただいたか計り知れないので「Part 3」に続き「Part 4」も放送メモをまとめました。とりあえず第1日目のみの記述ですが聞き取り完全版ではなく、あくまで私的な備忘録ですので、ご勘弁ください。(2014年11月8日改訂)

Tue, 13 August 2013
【第1夜】ニューヨークのグループを中心に後にドゥワップと呼ばれたコーラス・グループを特集します、と始まって先ずはフランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズの「Why Do Fools Fall In Love」がかかります。1955年、エルヴィスの「Heartbreak Hotel」がヒットし、そこからロックン・ロール時代が始まったということは既に紹介しましたが、ほぼ同時期にこの「Why Do Fools Fall In Love」がNol.1だったということも説明しました。アメリカン・ポップスの中心地であったニュー・ヨークは以前からコーラス・グループが中心的存在で、フランキー・ライモンはアッパー・マンハッタンの出身で、他のメンバーもハーレム付近の出だった。このフランキー・ライモンの直ぐそばに住んでいたのが後のロネッツのベロニカで、近所の大スター、フランキー・ライモンはベロニカにとってはアイドルだった、と言ってロネッツの「Baby, I Love You」の出だしの部分と「Why Do Fools Fall In Love」の一節が紹介され、ベロニカの歌い方がフランキー・ライモンに影響されていたことを指摘していました。「Why Do Fools Fall In Love」はギャンブル好きで有名なジョージ・ゴールドナーが作ったニューヨークの「GEE」という会社から発売され、このGEEという名前と同じ曲があった、と言ってCrowsの「Gee」がかかる。これは1953年のヒットでジョージ・ゴールドナーが最初に作った「LAMA」というレコード会社からのリリースだった。ジョージ・ゴールドナーは最初、「TICO」というラテンの曲を出していてティト・プエンテのラテン・ナンバーがかかる。この後にニューヨークの大ボス、モーリス・レヴィーと共同で作ったのが「LAMA」という会社で、5枚目のシングル「Gee」が大ヒットとなりこの曲にあやかってレーベル名を「GEE」とした。そしたらフランキー・ライモンの大ヒットが出た。この「Gee」のクロウズもハーレム出身のグループで、Crowとはカラスのことで先輩にRavens(大カラス)というグループがいました、といってレイブンスの「Count Every Star」がかかる。この「Count Every Star」はチャート・インしなかったが、後にリンダ・スコットのカヴァーで大ヒットしました。レイブンスは戦後間もなく結成されたグループですが、48年の暮れにヒットとなった曲を「かなり早いけど、メリー・クリスマス!」と紹介してレイブンズの「White Christmas」をかけます。このレイブンズのアレンジが54年のドリフターズに受け継がれました、と言ってドリフターズの「White Christmas」がかかり、そして77年に日本のトランク短井が受け継ぎました、と言って『ナイアガラ・カレンダー』収録の「クリスマス音頭」の一節がかかりました。これはどうでもいいですけど、と照れていましたが、こうやってドゥワップの曲が受け継がれていくことを説明していました。
レイブンスを皮切りにこの後、グループ名に鳥の名前をつけるのが恒例となっていきます。続いて登場したのが「ムク鳥」オリオールズでした、と紹介して「Crying In The Chapel」がかかりました。オリオールとは正確には「ムク鳥もどき」というようですが、この「Crying In The Chapel」は53年の全米No.1ヒットとなりました。オリオールズというとメジャー・リーグ、カル・リプケンのいたボルティモア・オリオールズを思い浮かべる人が多いと思いますが、オリオールズはボルティモアで結成され、オリオールがボルティモアの州の鳥で、リード・シンガーのソニー・ティルもボルティモア出身で結成は48年ですから大リーグのオリオールズより遥か先きにオリオールズを名乗っていたことになります。
続いての鳥はツバメ、スワローズです、と言って「Will You Be Mine」が紹介されます。スワローズもボルティモアのグループでグループ名は先輩インクスポッツのこの曲からとったものということでした。次のグループもボルティモアで結成されたグループです、と言ってカージナルスの「The Door Is Still Open to My Heart」がかかります。この曲は後にディーン・マーチンでもヒットした曲。カージナルというのは羽が赤いのが特徴で、メジャー・リーグのセントルイス・カージナルスのユニフォームにはバットに乗っている赤い鳥が書かれています。
ボルティモアから舞台はシカゴに移って、フラミンゴスの登場です、と言って「That's My Desire」が紹介されます。これも沢山のカヴァーがある曲ですが、曲自体は36年に作られていたもの。このレコードを発売した会社はシカゴのチャンス・レーベルでした。フラミンゴスはその後移籍してシカゴのパロット・レーベルに移り、いよいよレコード会社まで鳥の名前を付けるようになり、そこからリリースされた珍しいナンバーを聴いてみましょう、と言ってカントリーの名曲「知りたくないの(I Really Don't Want To Know)」のフラミンゴス・ヴァージョンが紹介されました。鳥の名前にはロビンズとかラークスと沢山ありましたが、このようにニュー・ヨーク、ボルティモア、シカゴ、ロサンジェルス等各地でコーラス・グループが結成されていたところに、53年のクロウズ「Gee」が大ヒットして、更に翌年Chordsの「Shoboon」のヒットで一気にこのジャンルが盛り上がってフランキー・ライモンの登場となった訳でした。
ここで鳥の名前以外のグループも紹介しておきましょう、と言って先ずは51年R&B No.1ソング、ファイブ・キーズの「Glory of Love」が紹介されます。タバコ・カントリーと言われるヴァージニア州のグループですが、この曲はニュー・ヨークで録音されました。次も51年のNo.1ヒット、クローバーズの「Don't You Know I Love Yoiu」です。アトランティック・レコード社長のアーメット・アーティガンの作曲です。クローバーズはワシントンDCのグループですが、50年にはニューヨークに拠点を移していました。アトランティック・レコードのコーラス・グループの基本となったのがこのクローバーズでした。
次はシカゴの大御所、ムーングロウズの54年のNo.1ヒット、「Sincerely」でした。結成は52年、何枚かレコードを出し54年にチェス・レコードに移籍して初めてヒットしたのはこの「Sincerely」でした。1年遅れだったフラミンゴスも55年にチェス・レコードに移籍してヒットを飛ばしました。パット・ブーンの方が売れてしまったが56年5位の「I'll Be Home」でした。この時点ではチェス・レコードではフラミンゴスとムーングロウズが二枚看板となっていました。この2つのグループはチェス・レコードに来る前は同じシカゴのチャンス・レコードにいて、その会社にいたグループはスパニエルズでした、と言って「Baby It's You」がかかる。このスパニエルズはインディアナ州はゲイリーの出身で、ジャクソン5の故郷として有名ですが、このスパニエルズが先輩であった。このゲイリーという町にビビアンとジェイムスという夫婦がいましてレコード店を経営していました。53年に会社を作って、それがVJレコードでこのVJレーベルが先ほどのチャンス・レコードを吸収合併して、大勢のアーティストがVJに移籍しました。このスパニエルズもVJに移籍してヒットを飛ばしました。54年5位となった「Goodnight Sweetheart Goodnight」がかかる。続いてエルドラドズの「At My Front Door」これは55年No.1になりました。このようにヒットの連発でVJレコードはシカゴのR&B界ではチェスに次ぐレコード・レーベルに成長していった。同じくインディアナ州はインディアナ・ポリス出身のカウンツの「Darling Dear」が紹介される。この♪バ、バ、バー♪というのはスペクターがいただいておりました、と言ってロネッツの「Why Don't They Let Us Fall in Love」が紹介されていました。
話しをニュー・ヨークに戻します、と言って「Gee」をかけ、このクロウズ、コーズ、フランキー・ライモン&ティーンエイジャーズ、全てニュー・ヨークのグループなんですね。50年代、ニュー・ヨークではこれらのヒットで空前のコーラス・グループ・ブームが生まれ、多くの小レコード会社ができた。その中からいくつか紹介します、と言ってモンテ・ブルースが作ったブルース・レコード、ここからデビューしたのがハープトーンズです、と言って「A Sunday Kind of Love」が紹介されました。スタンダード・ナンバーのカヴァーですが、このグループもニュー・ヨーク、ハーレムの出身で選曲もよく、実力もある素晴らしいグループでした。当時はこのようなグループがハーレム付近には沢山いて、彼らは公園を練習場所にしていた。このハープトーンズが練習しに来るとそれまで練習していた他のグループがこそこそと逃げ出すというくらい非常にうまいグループでした。ただ会社の宣伝力の問題があって、ヒットした曲がなく、チャートに入らなかった。
ニュー・ヨークで最初に黒人専門のレコード・ビジネスを始めたというのはボビー・ロビンソンでアポロ劇場の近くで46年からレコード店を経営していました。そして50年代にレコード会社を作ってそこから出たグループがMello-Moodsでした。51年に発表された「Where Are You」で彼らは12-16才の5人組でこれがニューヨークにおける最初のティーンエイジャーのグループとされています。確かに声が若いです。で、同じレーベルのスカーレッツの曲を聴いてみましょう。The Scarlets「Dear One」がかかる。ニール・セダカはこれを聴いていたんでしょうね。このスカーレッツはコネティカット州ニュー・ヘイブンの出身でこの曲を書いたのがリーダーのフレッド・パリスで彼が次に作ったグループが「In The Still Of The Night 」のファイブ・サテンズでした。56年3位となる大ヒットでバック・コーラスが印象的でしたがこのコーラスがヒントになったのが前年に出たハーツの「Lonely Nights」でした。このサックスのフレーズを作者パリスがコーラスにした、と本人も語っています。このハーツはニューヨーク、ブロンクスの出身で、歌を聴いていると女性グループに聞こえるが、ピアノの担当が男性だったので男女混淆のグループに分類されています。女性ドゥワップに関してはまた別のコーナーでお話しします。このハーツの曲はニュー・ヨークのバトン・レコードから発売されていました。このバトン・レコードの最初のヒットはRivileersの「A Thousand Stars」でした。53年のリリースでリード・ヴォーカルのジーン・ピアソンの作曲による曲で後にキャシー・ヤングで大ヒットしました。このリビリアーズはクィーンズのジャマイカ地区で結成されたグループです。
このようにニュー・ヨークではマンハッタンだけでなくブロンクス、ブルックリン、そしてクィーンズと各地区に沢山のグループがおりました。このクィーンズ、ジャマイカ出身といえばハートビーツもそうでした。56年5位まで上がった♪「A Thousand Miles Away」♪でした。この地区のグループはサウス・ジャマイカ・プロジェクトと呼ばれ沢山のグループがいました。クレフトーンズもこの地区の出身でした。The Cleftones - Little Girl Of Mineがかかり♪Come on a turkey trot♪のフレーズを口ずさみキャロル・キングさんもこの曲をいただいておりました、と言ってリトル・エヴァの「Let's Turkey Trot」が紹介されました。
クィーンズのお隣り、ブルックリンに眼を転じますとこれまた沢山のグループがおりました。まずはその中から Four Fellowsの「Soldier Boy」がかかります。グループのメンバーの一人が朝鮮戦争に行っていた時の体験を元に作った曲で、これはエルヴィスが軍隊から復帰したアルバム『ELVIS IS BACK』の中で歌っていました、と言って「Soldier Boy」がかかる。続いてブルックリン出身のグループ、Dupontsの「You」が紹介されます。このデュポンツのリード・ヴォーカル、アンソニー・グルーダイン、彼がリトル・アンソニーとなって作ったグループがImperialsでした。彼らの58年の大ヒット曲「Tears on My Pillow」が紹介されます。
まだまだブルックリンのグループが続きます。Chipsの「Rubber Biscuit」このような呪文のようなノベルティ・タイプの楽曲も出てきたのが55年前後の特徴でした。ニューヨークにおけるノベルティ・ドゥワップの原点となったのはキャデラックスの「Speedoo」でした。このジャンルは直ぐに西海岸からコースターズがやってきて、彼らに取られた格好になりました。次の曲もキャデラックスの曲ですが、とあるミュージシャンによって日本に紹介されておりますので耳馴染みになっているかもしれません。と言って「FUN x 4」の元歌の一つである「Zoom」がかかります。このようなコーラスのフレーズを日本の民謡のお囃子言葉という風に例えたが、音の組合わせ、バラエティ度が増してきたのが55年前後のコーラス・グループの特徴でした。 日本のサンドイッチ・マンを歌った珍しい曲(鶴田浩二さんのではなく)「I Am the Japanese Sandman」がマンハッタン出身のCellosの「Rang Tang Ding Dong (I Am The Japanese Sandman)」でした。奇妙な声を出してエコー処理をするというのは画期的なアイデアでしたね。このようなお囃子言葉をメインにしたサウンドというのはこの辺から段々増えてきて、この後エドセルズが受け継いで作った曲が「Rama Lama Ding Dong」でした。このタイプが60年代ポップスの基調となって更に発展を遂げていきます。
50年中期になるといよいよボストンからもグループが登場してきます。The G-Clefsで「Ka-Ding Dong」です。ボストン出身のグループとしては最初にナショナル・チャートに入ったグループといわれている。とある解説にはギターを弾いているのはフレディ・キャノンだとありましたが、メンバー達は否定しています。続いてはピッツバーグのグループ、Dell Vikingsの「Come Go With Me」です。57年R&B部門2位、POP4位と大ヒットとなったナンバーでした。ピッツバーグの小さなレコード会社から発売されていたものをドット・レコードが買い取って全米にヒットしました。このグループは4人組ですが、白人が一人入っているという混淆グループでした。このデル・バイキンズで初めて白人が入っているグループを紹介しましたが、本日紹介した曲は全て黒人グループによるものでした。54年クリューカッツの「シュブーム」が1位、それからドゥワップの白人カヴァーが大ブームとなりましてその流れにブルックリンのこのグループが登場したのです、と言ってトーケンズの「I Love My Baby」が紹介されます。ニール・セダカとトーケンズで、セダカの初ヒット「Diary」もドゥワップ調のバラードでした。しかしこのセダカの曲はヒットしなかった。セダカより前に白人グループが登場してきました。それはブロンクスのベルモント・アベニューから登場したこのグループがホワイト・ドゥワップの幕を切って落としました、と紹介してディオンとベルモンツの「I wonder why」を紹介しました。58年、チャートは22位でしたが、リード・ヴォーカルのディオンはニュー・ヨークの音楽ファンのアイドルとなって翌59年、このヒットが決定打となりました。この特集の最後の曲はDion & Belmonts 「Teenager In love」になり、F/O、番組のテーマ曲がかかりお開きとなりました。
<56年のフランキー・ライモンとティーンエイジャーズから58年のディオン「ティーン・エイジャー・イン・ラブ」とドゥワップもティーンエイジャーの音楽になりました。ブルックリン育ちのキャロル・キングは「エルヴィスにはあまり影響は受けなかった。R&Bやコーラス・グループを好んで聴いていた」と発言しています。彼女のようなニュー・ヨーク育ちの音楽家が中心となったのが60年代ポップス、ドゥワップは60年代ポップスの原点ということで駆け足で沢山の曲を聴いてもらいました。それでは、また明晩・・・>(と言って第1回目の放送は終了しました。)


いやー、実に多くの曲が紹介されましたね。「黄金餅」の志ん生師匠のセリフではありませんが、「フー、私も随分くたびれた!」といったところでしょうか。まだ4回分のこっておりますが、今年中に何とか「写経」を試みてみたいと思っております。また間違いや表記の統一ができていない記述になっておりますが、とりあえずすべてなぞったことでお許しいただきたいと思います。また随所に感想を入れようと思ったのですが、今回は紹介曲が多く、ただ曲を羅列することに留めました。こちらも随時補完していきたいと思っております。勉強になる指摘や発見が多く、感想も長くなりそうなので本日は控えておきます。長い文章に付き合っていただき、お疲れさまでした。以下、時間のある時の更新しますのでよろしくお願いいたします。


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