NHK FMラジオ番組、大瀧詠一の『アメリカン・ポップス伝 2013 Part 3』の放送メモ・ページです。

放送日:2013年3月25日から29日まで


注)昨年放送の「Part 2」に続き、放送メモをまとめました。聞き取り完全版ではなく、あくまで私的な備忘録ですので間違い、聴き違い、省略、文体の不統一等は大目にお見てください。忙しい合間にメモしておりますので間違いや誤記、舌足らず、省略等があります。気が付いた時点で鋭意改訂していきますので違っていると思われた方はこっそり教えてください。(2013年4月18日改訂)

Mon. 25 March 2013
【第1夜】前回はエルヴィスが「ハート・ブレイク・ホテル」で登場した1956年から徴兵された1958年、そして1959年あたりまでロックン・ロールの誕生から衰退、変貌をお送りしました。今回はブームのその後について詳しくお話ししたいと思っています。
先ずは記念すべき「ハートブレイク・ホテル」が録音された土地、ナッシュヴィルのその後からと言ってマーティ・ロビンスのこの曲が紹介されます。エルヴィスの影響を受けて自分のレパートリーに取り入れたカントリー界のマーティ・ロビンスですがチャック・ベリーの「メイビリーン」やリトル・リチャードのこの「のっぽのサリー」にも挑戦し、パット・ブーンもこの曲を歌っていました。このマーティ・ロビンスにはヒットしなかったB面に「Singin' the Blues」という曲があったのですがこのB面に注目したプロデューサーがいました。CBSのヘッド、ミッチ・ミラーでした。彼は1950年にコロムビアに入社してトニー・ベネット、ローズマリー・クルーニー、ジョー・スタッフォード、フランキー・レーン等のヒット曲はほとんど彼が担当ししました。特に顕著だったのは当時カントリーのNo.1シンガー、ハンク・ウィリアムスの曲をポップスにアレンジしてカヴァーしたということ。ここでトニー・ベネットの「Cold Cold Heart」とローズマリー・クルーニーの「Half As Much」がかかる。この2曲は51年、52年のNo.1ソングでアレンジはパーシー・フェイスでこの頃のミッチ・ミラーの影にはパーシー・フェイスがいた。このようにミッチ・ミラーはカントリー業界に注目していたのでマーティ・ロビンスのB面も見つけることができ、この曲を同じ会社のガイ・ミッチェル(自分の本名を彼に与えた名付け親がミッチ・ミラー)に歌わせました。そしてカントリー・タッチのこの曲をこのように変貌させて歌わせ見事1位に輝きました。その最大のポイントはマーティの方はファルセットでハンク調に歌ったのに対し、ガイの方は普通に歌っておりこれがミッチ・ミラーの手法で簡単に歌えるということでポップ・ソングの肝だと解説しておりました。この曲のアレンジはレイ・コニフ。そしてガイ・ミッチェルとミッチ・ミラーのちょっと前にミッチ・ミラーとレイ・コニフはビッグ・ヒットをチャートに送り込んでいた、と言ってジョニー・レイの「Just Waking In the Rain」が紹介されます。これはガイ・ミッチェルの「Singin' the Blues」と全く同じアレンジで、キャッシュ・ボックス、ビルボード誌で各々1位を獲得。
この前のチャートの1位はエルヴィスの「Love Me Tender」でした。エルヴィスのマネージャー、トム・パーカーはRCAやアトランティックだけでなくコロムビアにも話しを持ちかけていた。ところがミッチ・ミラーは「私はこのような音楽は嫌いである」と言って断ったということです。ガイ・ミッチェルの「Singin' the Blues」がNo.1になったのでオリジナルのマーティ・ロビンスのヴァージョンもリリースしたところポップスの17位に入るヒットとなった。この時点でマーティはこれまで彼を支えていたプロデューサーのドン・ローと別れニュー・ヨークへ行き、そこでミッチ・ミラーのプロデュース、レイ・コニフのアレンジ、ニューヨークのコロムビア・スタジオで自作の曲を録音することになる。それが「A White Sport Coat And A Pink Carnation」という曲でこれは大ヒットとなり2位にランクされました。ギターを弾いていたのはアル・カイオラでした。このナッシュヴィル・サウンドとニュー・ヨーク・サウンドの合体が後にポップ・カントリーと呼ばれるジャンルの先駆けとなる。ボビー・ヴィントンなどもこの流れにある。この「A White Sport Coat」がチャート上位にランクされていた頃の1位にいたのはエルヴィスの「All Shook Up」でこれは9週間1位でしたが、その後の1位はパット・ブーンの「砂に書いたラブ・レター」でこちらも7週連続1位という「All Shook Up」と甲乙付けがたい特大ヒットだった。いわゆるエルヴィス派vsパット派という対立図式がでいたのもこの時期でした。そして「砂に書いたラブ・レター」が1位の時、2位はマーティ・ロビンスの「A White Sport Coat」だったのでたった1年前にはパットもマーティも「のっぽのサリー」を歌っていたのが1年経ったらエルヴィスに対抗するポップ・ソング側のシンガーとなっていたということでした。
さてニュー・ヨークへやってきて全米に知られるシンガーとなったマーティ・ロビンスですが、彼に与えられた新曲は次世代のアメリカン・ポップスを担うことになるコンビの最初のヒットとなる曲でした。そのコンビとはハル・ディヴィッドとバート・バカラックで「Story of My Life」が紹介されます。この曲はポップ・チャートでは15位でしたがカントリー・チャートではNo.1になりました。後にバカラックはカントリー風の曲を作るようになりますが、あれはイメージ・チェンジではなく原点回帰だったのです。この「Story of My Life」がハル・ディヴッド=バート・バカラックの最初のヒットとなった曲でした。
ミッチ・ミラーはマーティ・ロビンスに次々に新人作家の曲を与えることに。この後に登場した作家はバリー・デヴォーゾンという人で「Just Married」という曲が紹介されます。この曲はカントリー・チャートでは1位の大ヒットとなり、バリーはミッチ・ミラーに直接この曲を送りそれをマーティが歌ってくれたので本当にラッキーだったと語っています。バリー・デヴォーゾンはこれで作家のスタートを切って後にジョニー・バーネットに「Dreamin'」を書き、自分で作ったレーベル(バリアント)でプロデュースした曲が有名な「悲しき雨音」でした。このカスケーズの後に登場してきたのが同じレーベルのアソシエーションでした。 次の曲ですがバリー・デヴォーゾンという名前を知らなくても聴いたことがある、と言って「Theme from S.W.A.T」が紹介されました。
57年9月、マーティ・ロビンスはロビンス・レコードという会社を始めることになる。 原盤出版の事業を始め、その中にアクセンツというグループがおりました。「Loving All Night」という曲ですが、これを歌っていた人がヒット・チャートに登場したのはこの曲から13年後の1970年のことでありました、と言ってブレッドの「二人の架け橋(Make It With You)」がかかる。ブレッドのリーダー、デヴィッド・ゲイツもロックン・ロール時代にデビューしていたが初ヒットを出すまでに13年もかかったということでした。
そしてミッチ・ミラー本人についても少し紹介しておきましょう、と言ってテレビ番組「ミッチと歌おう」を紹介していました。1963年からNHKで放映されたもので大瀧さんも中学3年から高校にかけて毎週観ていたとおっしゃっていました。ニコニコしたヒゲのおじさんが腕を振って指揮するというもので原題が「Sing Along with Mitch」というものでした。ミッチ・ミラー合唱団のデビューはエルヴィス登場の直前、55年の秋でデビュー曲は6週間も1位を続けた大ヒットでした。ここで「テキサスの黄色いばら(The Yellow Rose of Texas)」邦題が「草原のマーチ」がかかる。58年には「クワイ河マーチ」のヒットを飛ばします。中学校の頃、運動会で必ずこの曲が行進曲で使われていたように記憶しているということでした。
話しをナッシュヴィルに戻し、ブレンダ・リーが58年に3枚目のシングルがチャートに登場しました、と言って「One Step At A Time」が紹介されました。でもこの曲はカントリー・チャート15位、ポップでは45位と奮いませんでした。この年、もう1曲チャート・インした曲がありました、と言って「Dynamite」がかかる。日本では「ダイナマイト娘」という異名が付けられましたが、この曲も72位に終わりブレンダ・リーが一般的に知られるようになったのは1960年に入ってからのことなんですということでした。
ロックン・ロール時代の2年目、1957年マーティ・ロビンスはナッシュヴィルからニュー・ヨークへ行きました。その翌年の58年10月、ニュー・メキシコ州のクロービスというところをホームグラウンドにしていたバディ・ホリーは結婚ということもあってニュー・ヨークへ活動拠点を移します。以前のバンド・サウンドから華麗なストリングスをバックにメロディ・ラインを強調したサウンドへと変化していきました。ここで「True Love Ways」がかかる。このセッションではポール・アンカの曲やエヴァリーのスタッフ・ライターのブライアント夫妻の曲も取り上げていました。実はこのブライアント夫妻の曲はエヴァリーが気に入らなかったのでバディ・ホリーに回ってきた曲でした。「Raining In My Heart」がかかる。バディ・ホリーにぴったりの曲でしね。もうボビー・ヴィーの登場を予告しているとも言えます。この4ヶ月後にバディ・ホリーはこの世を去るのですが、その後ものすごくフォロワーが多かったというのはこういったメロディ・タイプの曲があったからだと思います。ロックン・ロール・タイプだけでしたらあれほどの影響力は持ちえなかったと思いますと解説していました。そのバディ・ホリーの影響は改めて語ることにしたいということでした。
バディ・ホリーのニュー・ヨーク録音の1年後、59年12月にエヴァリー・ブラザーズもニュー・ヨークへやってきます。会社社長アーチー・ブライヤーの編曲を元にストリングスをバックにジルベール・ベコーの名曲をカヴァーしました。「Let It Be Me」がかかる。 エヴァリーが所属していた会社、ケイデンス・レコードですが、これはニュー・ヨークの会社で社長のアーチー・ブライヤーは元々楽団のリーダーだったのでこのようなアレンジが得意だった。エヴァリーが所属していた出版社はエイカフ・ローズと言いましてナッシュヴィルでは一番大きくヒットを連発していた会社でした。57年、そこに新しく契約したドン・ギブソンがナッシュヴィルにやってきます。そこでRCAレコードと契約しました。チェット・アトキンスがプロデューサーとなって担当した第一号のアーティストがドン・ギブソンでした。 「Blue Blue Day」がかかる。そういえばどことなく「Bye Bye Love」を感じさせるものがあります。最初はカントリー調のものを歌っていたのでしたが全くヒットしなかった。チェット・アトキンスはその頃エヴァリー・ブラザーズのセッションをやっていましたから「なあ、ドンよ、今はもうエヴァリーの時代だ。古いカントリーはもうお呼びじゃない。あんな曲を作ってみたらどうか」というので作った曲が「Blue Blue Day」でした。これはヒットには至らなかったがチェットとドンはこの路線に手応えを感じて続編を作ろうということになりました。新曲のタイトルは「Oh Lonesome Me」。これはカントリー・チャートで1位、ポップ・チャートでも7位にランクされるという大ヒットとなった。リード・ギターはチェット・アトキンスですがプロデューサーとしても初のヒット曲となった。コーラスはお馴染みのジョーダネヤーズですがここでナッシュヴィルのレコーディング史上初めての音が録音されていました。ミックスが低いので分かりにくいかもしれませんが♪トン、ストトン、トン、ストトン♪というシンコペーションのバス・ドラムが入っていたんですね。R&Bの曲では何曲もそういう音はあるがカントリーの中でこれが出てきたのは初めてだった。R&Bのものでどういうものがあるかというとイントロでフィーチャーされたもので最初の大ヒットとなったものはこれなんですね、と言ってファッツ・ドミノの「I'm Walking」が紹介される。これが元祖バス・ドラ・イントロ、ドラマーはアール・パーマーですね。「Oh, Lonesome Me」のドラマーはR&Bのドラマーからこのたたき方を教わったと言っています。ドン本人は別の曲をプッシュしたかったがスタッフによってB面にさせられてしまう。そのB面の曲とは「I Can't Stop Loving You」。ポップでは81位と低かったが、カントリーでは7位でした。ご承知のとおり後にレイ・チャールスによって世界的な大ヒットとなるのですがそれはこれから4年後のことでした。「I Can't Stop Loving You」がかかる。ドン・ギブソンも作った時にはこれほどのヒットになるとは思わなかった。ヒットというのは面白いもので単に曲がいいというだけではヒットにはならない。タイミングということもある。前に出していた「Blue Blue Day」もこの後チャート・インしてカントリーで1位、ポップでも20位になった。一つ大ヒットがあると次々にヒットするということはポップス界にはよくあることですが、たった一つのきっかけというのが大事なんです。ここからドン・ギブソンはヒット・チャートの常連となって次々にヒットを飛ばします。
ドン・ギブソンがヒットを飛ばした58年、メンフィスのサン・レコードからRCAに移籍してきた人がいました。 出版社も同じくエイカフ・ローズ。プロデューサーも同じチェット・アトキンス。やってきたのはロイ・オービソン、と紹介され「Seems To Me」がかかる。コーラスはジョーダネイヤーズ、作曲はブライアント夫妻でしたがこれはヒットしなかった。サン・レコードからナッシュヴィルに来たのはエイカフ・ローズという出版社と契約したから。この曲がきっかけとなりました、と言ってエヴァリーの「Claudette」がかかる。「All I Have To Do Is Dream」のB面。これが30位となるヒットとなったのでロイに出版社から声がかかったというわけ。この「Claudette」はオービソンがサン・レコード時代に作った曲でした、と言ってロイ・オービソンの「Claudette」がかかる。この曲が縁でナッシュヴィルにやってきてRCAレコードと契約し、「Seems To Me」が第1弾となったがヒットはしなかった。そこで第2弾はチャック・ベリー・タイプのロックン・ロール路線でいきました、と言って「Almost Eighteen」がかかる。自作の曲だったがこれもダメだった。続いて3枚目は元自分のバンド、ティーン・キングスのピーナッツ・ウィルソンに書いた曲のセルフ・カヴァーでした、と言って先ずピーナッツ・ウィルソンの「Paperboy」がかかり続いてロイ自身の「Paperboy」も紹介される。これを3枚目のシングルとしてリリースしようとしたがこの時エイカフ・ローズの社長がRCAからではなくモニュメントからリリースし録音し直すと言ってきた。ロイはモニュメントというものが何なのか分からないままにスタジオに行くといつものナッシュヴィルのAチームのメンバーが揃っていて再びこの「新聞少年」をレコーディングすることになった。ミュージシャンは同じなのであまり違いは感じられなかったかもしれませんがモニュメント用のテイクが欲しかったのでしょうか、これがロイ・オービソンの移籍第1弾ということになりました。モニュメント・レコードは58年3月にワシントンDCで作られた会社です。後にナッシュヴィルに移ってくる。作ったのはフレッド・フォスターといってマイナー・レーベルなどを探して歩く営業をやっていた人。ですからセールスに関しては経験豊富な人だった。で、モニュメントの第1弾とはビリー・グラマーという人の「Gotta Travel On」という曲でこれは4位となるヒットで最初に出したレコードから4位というのはスタート・ダッシュとしては素晴らしいものだった。ただロイ・オービソンの「新聞少年」はヒットせず、なかなかオービソンのヒットへの道は遠かった。ちょうどこの頃、オービソンはソングライターのジョー・メルソンと知り合う。彼はオービソンの自宅の隣り町に住んでいて二人は意気投合して曲を作り更にストリングスを入れたいと言ってアレンジャーにアニタ・カーを起用する。そしてミュージシャンはいつものナッシュヴィルAチーム。ジョー・メルソンとロイ・オービーソンが初めて作った曲がこれです、と言って「Uptown」がかかる。ようやく出来上がりましたね、オービソンのサウンド。56年から4年半ぶりの60年1月にチャートに登場した。しかし最高位は72位だったがこれまでの道のりを考えると上出来だったと言ってよい。で、「新聞少年」まではRCAの古いスタジオで録音されていたが、「Uptoown」は初めてRCAの「Bスタ」で録音されました。エンジニアはビル・ポーター、新しく出来たスタジオの素晴らしいサウンドを出していたのはこのビル・ポーターの手腕だった。59年、下準備が完了したRCA Bスタに60年春、いよいよエルヴィスが帰ってきます。Bスタは3月20日からエルヴィス用にスタジオもミュージシャンも全部押さえてエルヴィスの復帰の準備をしていた。ですからオービソンの次のレコーディングはエルヴィスの終わるのを待たねばならなかった。しかし、このオービソンの「Uptown」セッションは結果的にエルヴィスのカムバック・サウンドを作っていたことになる。同じスタジオ、同じミュージシャン、同じエンジニアで「エルヴィスズ・バック」は録音されました。そしてロイ・オービソンもこの後栄光の60年代を迎えることになるのですが、それはナッシュヴィルの60年代のコーナーでお話しすることにして本日はここまでとします、ということで第1夜は終了でした。♪Uptown♪が途中から流れる。


Tue. 26 March 2013
【第2夜】本日はニュー・ヨークのポップス・シーンについてボビー・ダーリン、コニー・フランシス、ニール・セダカの3人に絞って、その3人の関係がニュー・ヨーク・ポップス、ひいては60年代ポップスを作っていく過程をタイムラインを追いながら説明していこうと思います。先ずは前回のおさらいから、と言ってボビー・ダーリンの「Splish Splash」がかかる。ニュー・ヨーク最初のロックン・ローラーとなったボビー・ダーリンは学校時代に知り合いだったドン・カーシュナーとコンビを組んで音楽ビジネスをスタートしたということは前回もお話ししました。そしてコマーシャルの仕事をしていた時にコニー・フランシスと知り合ってコニーは既に55年にレコードデビューを果たしていた。デビュー曲は「Freddy」という曲でした。このように売れないシングルが続いて4枚目がボビー・ダーリンとドン・カーシュナーの作品、「My First Real Love」でした。ボビー・ダーリンもコーラスで頑張りましたが全くかすりもしなかった。そうこうしている内にボビー・ダーリンもレコードを出すことになってメジャー会社のデッカから「Silly Willy」でデビューし4枚出しますが、これも全く売れませんでした。
もう一人のニール・セダカは同じニュー・ヨークでもブルックリンですからボビーやコニーとは住んでる場所が違いました。セダカは同じアパートに住んでいたハワード・グリーンフィールドと1952年にコンピを組むことになります。二人が同じアパートだったということも出来過ぎの話しのようですがこういうケースはよくある話しだった。グリーンフィールドの方が先輩だったので出版社に曲を売り込みに歩いていた。プログレッシブ・ミュージックという会社があってそこが二人の曲を買ってくれました。その曲はアトランティックのクローバーズが吹き込んだ「Bring Me Love」という曲でした。この二人の才能を認めた出版社のジェリー・ウェクスラーはもう1曲彼らの曲を取り上げて女性グループのクッキーズに歌わせました。タイトルは「Passing Time」。このクッキーズとセダカは6年後に再会することになるのですが、どちらもB面の数合わせとして使われた訳ですが、アトランティック・レコードの重鎮、ジェリー・ウェクスラーは後にあの時二人と正式に契約しておけばよかったと後悔したそうです。
セダカはこの当時まだハイスクールに在籍中でした。アブラハム・リーンカーン・ハイスクールという由緒ある名前でした。ブルックリンにある学校ですが、他にも沢山の音楽関係者を輩出していた。ハワード・グリーンフィールドも先輩で、モート・シューマン(大先輩)、ボブ・フェルドマン、ニール・ダイヤモンド(後輩)、そして学校の同僚と組んだグループがトーケンズでした、と言って「I Love My Baby」がかかる。このトーケンズもヒットが出るのはこれから5年後のこと。
コニー・フランシスはMGM、ボビー・ダーリンはデッカとメジャー会社だったのですが、ニール・セダカはマイナー・レーベルからのスタートでした。3人とも全くヒットせずでエルヴィスが「Heartbreak Hotel」で登場した1956年のことでしたが、この3人にとってスターへの道はまだ遠かった。
翌57年、コニー・フランシスにとっては試練の年となった。3年間で9枚もシングルを出したが1曲もヒットしなかったので流石にMGMレコードもしびれを切らして次の10枚目のシングルもヒットしなかったら契約を打ち切ると言ってきた。そこでステージ・パパの登場です。「いいかい、コニーよ。お前は18曲も無駄にした。最後だから私の大好きな曲を歌ってくれよ」と頼んだのです。それは30年以上前の古い歌でした。「Who's Sorry Now /Billy Banks & His Rhythm Makers」がかかる。コニーのパパはこの歌が大好きでいつも歌っていたんだそうですが、コニーは「こんな古臭い歌はイヤよ!」と言って断ったそうですが、最後ということで押し切られて吹き込んだところ、結果的に大ヒットとなりコニー・フランシスはようやく有名になれた、と言ってコニー・フランシスの「Who's Sorry Now」が紹介されました。この曲がチャートを賑わせていたのは58年4月頃ですからすでにマーティ・ロビンスのポップ・カントリー調の曲は市民権を得ていた時期でロッカ・バラードとポップ・カントリーを足したようなアレンジが成功の原因だったのではないか、と推論しておりました。このレコーディングに関してコニー・フランシスは面白いことを言っています。「ここまでのシングルは誰風に歌おうと考えていた。しかしこの時は誰の真似もしないで自然に歌えた」と言っています。ですからコニー・フランシス自身の歌い方を見つけたということなのでしょう。ということでボビー・ダーリン、コニー・フランシス、ニール・セダカの中で最初に登場したのはコニー・フランシスでした。
ではこの時ボビー・ダーリンはどうしてたかと言いますとデッカからアトランティックに移籍して自分の路線をどれにしようかと迷っていた時代だった。しかし時代はロックン・ロールですからボビー・ダーリンとドン・カーシュナーはそれ風の曲を作りました。「Pretty Betty」が紹介される。これはリトル・リチャードの「Tutti Frutti」ですね。続いては「Don't Call My Name」が紹介され、これはすぐに分かりますね、と言ってファッツ・ドミノの「Ain't That A Shame」を挙げていました。で、この2曲をカップリングして売り出しましたが、全くヒットしませんでした。丁度この時期、アトランティックが待ちに待っていたリーバー=ストラーのコンピがニュー・ヨークへやってきました。そこでコースターズのニュー・ヨークにおける初セッションとなる訳ですが、ここでボビー・ダーリンが曲を提供していた、言って「Wait A Minute」がかかる。「Searchin'」と「Young Blood」を足した曲ですがボビー・ダーリンとドン・カーシュナーのコンピは本当に分かり易いですが、このコンピは作家チームとしては大失敗でドン・カーシュナーは作家の夢を早々と捨てて出版事業に走りこちらは大成功となった。人生早目の切り替えが大事ということでしょうか。ニュー・ヨークに来てリーバー=ストラーがコースターズに最初に書いた曲が「 Yakety Yak」でした。ノベルティ・ソングを書かせたらこの二人に適うものはいません。
さて一方にニール・セダカもマイナー・レーベルからレコードを出し続けておりました、と言って「Ring-A-Rockin'」がかかる。ジェリー・リー・ルイス・タイプの曲でボビー・ダーリンよりニール・セダカの方が作曲能力は高いですね。もしこの曲がヒットしていたらニール・セダカの方がニュー・ヨーク初のロックン・ローラーとなっていたがニールはヒットせずにボビー・ダーリンの方がヒットしたという訳でした。「Splish Splash」のアウトテイク版がかかる。イントロのギターはおそらくアル・カイオラ。ニュー・ヨーク初のロックン・ローラーは結果的にボビー・ダーリンとなったのですが、この時1位だった曲はコースターズの「Yakety Yak」ですからアトランティック・レコードとしてはウハウハの状態だった訳です。ついにヒットの出たボビー・ダーリンはロックン・ロール路線を突っ走りました。「Mighty Mighty Man」がかかる。歌うまいですね、ボビー・ダーリン。ボビーよりも先きに登場したコニー・フランシスは第2弾を出します、と言って「I'm Sorry I Made You Cry」が紹介される。自信が出てきたんでしょうね、歌い上げていました。これは「Who's Sorry Now」と全く同じ路線だったが36位と低調だった。そこで第3弾にプレッシャーがかかりました。この第2弾からはMGMの新しいプロデューサー、モーティ・クラフトが担当したが彼も相当焦ったでしょう。いろいろ曲を探したがいい曲がなくそこへドン・カーシュナーが登場します。彼が始めた出版社に今度契約したコンピがいるということでセダカとグリンフィールドを連れてきた。その場にはボビー・ダーリンもいたがいろいろ聴いていく中でコニーが「この曲私にちょうだい!」と叫んだのが「Stupid Cupid」でした。後半に聴こえるピアノはニール・セダカが弾いています。ここでコニー・フランシスがニュー・ヨーク最初の女性ロックン・ローラーとなって恋人ボビー・ダーリンの「Splish Splash」の後を追ったという訳でした。それよりもこのセッションは重要な偶然がありました。この「Stupid Cupid」をアレンジしたのはチャック・セイブルです。彼は以前マーキュリーのスタジオでアレンジの仕事をしていたがプロデューサーのモーティが呼んできた。セダカにとってこのチャック・セイブルとの出会いは非常に大きかった。「Stupid Cupid」がゴキゲンなロックン・ロールに仕上がったのもこのチャック・セイブルのアレンジの力が大きかった。同じ日のセッションでもう1曲セダカの曲が録音された、と言って「Fallin'」がかかる。このブルージーなムードは100%アレンジャーのチャック・セイブルの腕によるものでセダカはこのアレンジが相当気に入ったようでした。この2曲、「Stupid Cupid」は14位、「Fallin'」は30位とそんなに高くなかったが、コニーはニール・セダカによってロックン・ロール路線を始めることができた。
さて58年6月にアルドン出版社と契約したニール・セダカに与えられた仕事はリトル・アンソニーとインペリアルズの第2弾を作ることでした。彼らの第1弾とはと言って「Tear's On My Pillpw」がかかる。これがポップ・チャート4位となる大ヒットでプロデューサーのジョージ・ゴードナーは第2弾を探していたがセダカとグリーンフィールドが書いた曲が「The Diary」ということになった。リトル・アンソニーとインペリアルズの「The Diary」がかかる。お聴きになって分かると思いますが肝心なところでコードを間違えていたり勝手に歌詞を変えたりしてニール・セダカは随分憤慨したそうですが、アルドン出版社のアル・ネビンズの勧めもあって自分のレコードの第1弾にこの曲をしようと決めた。他人にアレンジやプロデュースを任せた場合によく起きることで作者側としてはちょっと違うんだよな、と言ってそれが高じると自分でやりたくなったりするものだがおそらくセダカもそういう思いだったのではないでしょうか。レコード会社もアル・ネビンズがスリー・サンズ時代の古巣、RCAと決まってデビュー曲、「The Diary」を録音することになった。これが最初の「The Diary」でサックスはキング・カーティスなんですが日本のムード歌謡みたいですね。やってはみたものの満足できる出来ではなかった。そこでニール・セダカはコニー・フランシスのセッションで知り合ったチャック・セイブルを呼んできたんです。それからチャックはニールのアレンジャーとなるが、初期の楽曲は全て彼が編曲している。そして再録音されたデビュー・シングル「The Diary」はめでたく59年1月に発売されました。再録版「The Diary」がかかる。これがポップ14位、R&Bでも25位にチャート・インしてセダカはこの時点で歌手として、コニー・フランシス、ボビー・ダーリンと肩を並べることができた。「The Diary」に続いてセダカの第2弾シングルはお得意のジェリー・リー・ルイス調のロックン・ロールでした、と言って「I Go Ape」がかかる。曲が始まる前に語りが入ることをヴァースと言いますが、こうしたヴァースが付いた曲はセダカの得意技の一つでした。これはチャック・セイブルのアレンジが光っていて素晴らしい出来でニュー・ヨーク生まれのロックン・ロール・ナンバーとしてはこれがNo.1ではないかと大瀧さんは評価しておりました。特にドラムが凝っていてドラマーはスティックス・エバンズと言います。この人は非常にうまいんです。それともう一人ブラシを叩いている人がいてダブルでリズムを刻んでいる。ところが素晴らしいロックン・ロールが出来たのですが、チャートは42位と奮わなかった。しかしイギリスではこの「I Go Ape」セダカのデビュー・ヒットとなり9位にランクされた。このあたりにアメリカとイギリスとのロックン・ロールの捉え方の違いが現れているともいえるし、59年になるとアメリカではブームに陰りが出ているのでそういった関係もあったかもしれない。
さて、ニール・セダカが「I Go Ape」を録音していた頃にボビー・ダーリンは自作のポップ・ソングのデモを作っていた。「Dream Lover」のデモ音源がかかる。ギターはおそらくアル・カイオラ、この録音をする前日にボビー・ダーリンはニール・セダカに電話し明日のセッションでピアノを弾いてくれないかと頼んだ。ボビー・ダーリンはデビュー以来ピアノは全部自分で弾いていたが不思議なことにこの曲だけ前日、突然ニール・セダカをピアニストとして使ったと言っていました。ここで「Dream Lover」がかかる。アル・カイオラのギターがデモよりも高音になっている。オクターブ上げた方がいいというアイデアはセダカがセッション中に出したものだと言われているそうです。またもう一つこの曲のドラムはセダカのメイン・ドラマーだったスティックス・エバンズが叩いている。このエバンズがボビー・ダーリンのセッションに参加したのは後にも先きにもこの時だけなんです。ですからこの曲は完璧なセダカ・サウンドに聴こえてしまうのです。この「Dream Lover」は最高位が2位と大ヒットしていた59年6月ですが、追いかけるようにチャートを上がってきたのはコニーの「Lipstick On Your Collar」でした。途中のギター・ソロはジョージ・バーンズという有名なジャズ・ギターリストで流石にジャズマンという感じがします。この頃になるとニュー・ヨークのジャズ・ミュージシャンもロックン・ロールのニュアンスをかなり出せるようになってきています。まあ、それにしてもボビー・ダーリンがロックだといえばロック、ポップといえばポップとコニーのフォロー度合いが凄いですね。「カラーに口紅」のB面はニール・セダカのバラードでした。「Frankie」がかかる。いいバラードですね。この頃からコニーとセダカの相性がピッタリしてきましたね。この後は次々に名曲が生まれます。 A面の「カラーに口紅」は5位、B面の「フランキー」は9位と両方がトップ10入りするというコニー・フランシス初の両面ヒットでこれが60年代ポップスの幕開けを感じさせるシングル盤ともいえる。また「カラーに口紅」は私のポップスの原点となった曲で非常に思い出深い曲でしたと語っていました。
いよいよ真打ち、ニール・セダカの大ヒットが登場します、と言って 「Oh, Carol」がかかる。これは9位となってニール・セダカ初のトップ10ヒットです。この時点では3人ともNo.1ヒットはなかったが、ボビー・ダーリン、コニー・フランシスとともにトップ10シンガーの仲間入りとなった。この時点では3人ともまだNo.1ヒットは持っていない。この「Oh, Carol」の元ネタはご存知ダイヤモンズの「Little Darlin'」でした。このダイヤモンズのアレンジですがこれもチャック・セイブル、その人だった。どこにもクレジットされてなく別の人の名前が書かれていますから今まで知られていなかったが、ニールがそう語っています。またダイヤモンズを調べますとチャック・セイブルは当時別名を使ったりしていたので「Oh, Carol」は「Little Darlin'」の真似かと思っていたが本家本元のアレンジであったわけです。この「Oh, Carol」にはアンサー・ソングがあったということは最近では有名な話しとなっていますと言って、「Oh, Neil」がかかる。歌っていたのはご存知キャロル・キング。作詞は旦那のゲリー・ゴーフィンが書いています。この二人は結婚する前、キャロル・キングとニール・セダカは10才の頃から知り合いだった。そこで元のガール・フレンドの名前で詞を書いてくれとグリーンフィールドに頼んでそれが「Oh, Carol」だった。キャロル・キングが歌った「Oh, Neil」のアレンジとプロデュースは何度も出てきますがチャック・セイブルです。この「Oh, Neil」が契機となってゴーフィン=キングはドン・カーシュナーと知り合ってアルドン出版社と契約した。このゴーフィン=キングはセダカの次のエースになったし、更には'60'sポップスの牽引者となった。「Oh, Neil」が第1作で何がきっかけになるか分からないものです、と言った後に♪ジャン、ジャン、ジャン♪と「Oh, Carol」のエンディングがかかる。
ここでボビー・ダーリンに話しを移す。ボビー・ダーリン、本名Walden Robert Cassotto、イタリア系です。イタリア系で男性歌手ということになると当然目標はフランク・シナトラということになる。幼少時代からシナトラのような大歌手になるというのが周囲の期待でもあった。ですからいくらポップ・ヒットが出てもボビー・ダーリンは満足することはなかった。「Dream Lover」がヒットする前に実はスタンダード・ナンバーを集めたアルバムを企画していた。半年以上前に録音されていた曲といって「Mack The Knife」がかかる。このリリースが遅れたのはDJの反対が大きかったといいます。折角「Dream Lover」が大ヒットしてティーンの客をこれだけつかんだのだからみすみすそれを失うことはなかろう、というのがDJの意見だった。ところが出してみたら人気が衰えるどころかNo.1を獲得しました。9週連続1位、他のチャートでは10週1位だった。この曲は音楽界最大の栄誉であるグラミー賞を獲得した。ここでボビー・ダーリンはティーンのアイドルから大人の歌手へと、つまりシナトラへの道が開けた。「Mack the Knife」が入ったアルバム『THAT'S ALL』といいましてこのアルバムも大ヒットしました。スタンダード・ナンバーを集めたものでした、と言って「That's All」がかかる。シナトラへの道まっしぐらという感じですね。この曲をボビー・ダーリンが録音したすぐ後にコニー・フランシスも同じ曲をレコーディングしている。コニーの「That's All」がかかる。ボビー.ダーリンへのラブ・レターという感じで切々と歌っていました。正にボビー・ダーリンへの後追い三味線ですね。本名Concetta Rosa Maria Franconero、イタリア系です。ボビー・ダーリンは夢の舞台でもあるコパ・カパーナへも出演します。そして『Darin at COPA』というアルバムも出ます。その半年後、『Connie Francis at COPA』というアルバムを出しました。どこまでもボビー・ダーリンをフォローするコニー・フランシスさんでした、と言ってこの日の落ちとなる「渚のデイト(Follow The Boys)」がかかりエンディングとなりました。
第2夜はニュー・ヨークのその後としてボビー・ダーリン、コニー・フランシス、ニール・セダカの3人組の物語をお送りしました。この3人の共通人物がアルドン出版社のドン・カーシュナーだったことを含めまして今までのストーリーをアルバムにするとしますとタイトルは「ティーン・エイジ・トライアングル」つまりこれが『Teenage Triangle Vol.0』だったというわけです、という素晴らしい結びで終わっていました。あー、面白かった!



Wed. 27 March 2013
【第3夜】この日は舞台をフィラディルフィアに移し、メンフィスからエルヴィスの録音移動とともにナッシュヴィル、ニュー・ヨーク、ロサンジェルスと音楽活動が活発になっていった過程をお話ししてきましたが、1958年前後からフィラデルフィアが活発になってきます。そこで本日のタイトルは「フィラデルフィア物語」、先ずはフレディ・ベル&ベルボーイズの「Hound Dog」 から紹介されました。1956年にエルヴィスはラスベガスでこのベルボーイズのショーを観て「ハウンド・ドッグ」のカヴァーを思い立ったということは以前お話ししました。彼らのデビューはティーン・レコードというフィラデルフィアにあった小さな会社でした。その現場を取り仕切っていたのがバーニー・ロウです。この「ハウンド・ドッグ」でピアノを弾いていたのもバーニー・ロウでこの人を知っていたかどうかは分かりませんが彼にエルヴィス用の新曲を依頼して出来上がったのが動物シリーズのこの曲、「Teddy Bear」でした。これを作ったのがバーニー・ロウとその相棒のカル・マンでこの二人がフィラデルフィアで作ったレコード会社がカメオ・レコードです。このカメオでは最初の4枚は売れなかったが5枚目が大ヒット、それがチャーリー・グレイシーの 「Butterfly」でした。ガイ・ミッチェルの「Singin' the Blues」のサウンドをよりセクシーにした路線ですがカヴァーとともにNo.1になるという超ビッグ・ヒットとなりました。このチャーリー・グレイシーはフィラデルフィア生まれで52年から活動していましたが、全く売れず57年に新しくできたカメオ・レコードと契約して最初にレコードがこの「バタフライ」だった。この大ヒットでカメオ・レコードは順調なスタートを切り、チャーリー・グレイ、作者兼オーナーのバーニー・ロウ、カル・マンという人物にスポットが当たったがフィラデルフィアという土地に全米音楽界が注目し始めた時でもありました。このカメオ・レコードの大成功からフィラデルフィア・サウンドが始まりました。カメオ・レコードの中心人物はバーニー・ロウとカル・マンの二人ですが、そのコンピに3人目が加わります、と言ってDave Appell & The Applejacksの「Mexican Hat Rock」がかかる。この曲の作者、デイブ・アペルもフィラデルフィア生まれで作曲は勿論のこと演奏、アレンジ、エンジニア、プロデュース何でもできる人だった。先ほどの「Butterfly」でギターを弾きながらコーラスをしていた人がこのデイブ・アペル でした。カメオ・サウンドの大部分は彼が作ったと言ってもいいでしょう。この「Mexican Hat Rock」は彼らの4枚目のシングル、初ヒット、16位まで上がりました。カメオの次の大ヒットは17枚目のシングルでした、と言ってRaysの「Silhouettes」がかかる。これはなんとポップ・チャートの3位になる大ヒットとなった。でもこれはカメオの原盤ではなくニュー・ヨークのマイナー・レーベル、XYZというレーベルから出ていたものをカメオが原盤権を買って発売したもので、このXYZという会社を運営していたのがフランク・スレイとボブ・クリューです。歌っていたレイズは55年のデビューでしたがそのデビュー曲「Tippity」もこの2人の作品でした。なかなかヒットの出なかったレイズは再びこの2人にプロデュースを頼んだところ「Silhouettes」が大ヒットしたという訳でした。XYZは小さな会社でしたのでフィラデルフィアでプロモーションをした。それがカメオ・レコードの社長、バーニー・ロウの目にとまり全米3位となる大ヒットとなった。こうなるとカメオはフランク・スレイとボブ・クリューに次の仕事を依頼することになり、オーディションで選ばれた次の歌手は男性と女性の2人のシンガーでした。そのデモを聴いたカメオの社長は女性の方だけをシングル・カットしました。その女性とはリリー・ブライアントと言って「Good Good Morning Baby」がかかる。ところがこれが全くヒットしなかった。そのデモの中にリリーとビリー・フォードとのデュエット・ソングがありそれをカメオの社長は気に入らずその原盤は採用しなかった。それを聞きつけたのがフィラデルフィアに出来たばかりのスワン・レコードでした。そしてこの男女デュオはビリー&リリーとして「La Dee Dah」をリリースしポップ・チャートの9位となりスワン・レコードの最初のTOP10ヒットとなった。カメオ・レコードのバーニーロウは大魚を逃した訳です。スワン・レコードは早速フランク・スレイとボブ・クリューに次の仕事を依頼した。ビリー&リリーの次のシングルは「Lucky Ladybug」でこれも14位とTOP20に入りました。この後フランク・スレイとボブ・クリューはスワン・レコードの中心的プロデューサーとなっていき、カメオはヒットを逃したばかりでなく大事なスタッフを失ってしまったことになる。
この2曲のヒットですが、実はDJのディック・クラークが経営に参加していた。それまでフィラデルフィアのローカル番組だった「バンドスタンド」という番組が57年8月に全国放送となり、番組名も「アメリカン・バンドスタンド」となって徐々にアメリカの人気番組になっていきました。ここで有名な「At The Hop」がかかる。「アメリカン・バンドスタンド」といえばダニー&ジュニアーズの「At The Hop」でしたが番組発信地であるフィラデルフィアも新たなポップスのメッカとなった。この「At The Hop」は全国放送開始後4ヶ月後にチャートに登場しNo.1を獲得しました。発売したレコード会社は番組を全国ネットしているABCテレビのABCパラマウントという会社でした。この「At The Hop」にはこのタイトルになる前に原曲があった、と言ってJuvenairesの「Do The Bop」がかかる。ジェリー・リー・ルイスの曲が元になって作られたものだがバック・コーラスがDanny & Juniorsでリード・シンガーはジョニー・マダラです。マダラとDanny & Juniorsのデイブ・ホワイトがマダラ&ホワイトという作家コンビを作り、後にレスリー・ゴーアの「恋と涙の17才」とかレン・バリーの「1 2 3」とかは彼らのペンによるものでした。原点はこの「Do The Bop」だった。全員がフィラデルフィアの若者です。「Do The Bop」を「At The Hop」というタイトルに変えたのがディック・クラークでした。「アメリカン・バンドスタンド」という番組は曲にあわせてスタジオ内の観客がダンスをしているところを映す公開放送で途中で歌手のコーナーがあっても全部クチパクなんです。とにかく踊りが重要なんです。「At the Hop」の歌詞の中にも「You can slop and you can stroll it at the hop」とありますがこの歌詞の中に出てきた「Stroll」、「At the Hop」の3週間後になんと「Stroll」という曲がチャートに登場します。サックスはキング・カーティスで歌っていたのはダイヤモンズ。これは彼らにしては珍しくオリジナルなんです。最高位は4位でしたがR&Bチャートでも5位にランクされ、ダンスはとにかく流行った。(『アメリカン・グラフィティ2』で列を作って躍ってましたよね。)更にこの曲はチャート以上の影響力があってこれに似た曲が沢山作られました。デュアン・エディの大ヒット曲「レベル・ラウザー」のB面もそれでした、と言って「Stalkin'」 がかかる。最初はこちらをA面にしたいとデュアン・エディは希望したそうですがスタッフに地味すぎると反対されて「レベル・ラウザー」にしたそうです。これよりも更に「Stroll」に影響された曲がありました、と言ってリンク・レイとレイ・メンの「Rumble」が紹介される。これはケイデンス・レコードからリリースされたが「Ramble」という題名はフィル・エヴァリーが付けたそうです。「Stroll」から影響を受けて作ったとリンク・レイ本人が発言しております。ポップ・チャートでは16位でしたがR&Bチャートでは11位でした。リンク・レイというギターリストが与えた影響についてはまた別の機会にお話しすることになると思います。
この後も「アメリカン・バンドスタンド」から有名なダンス・ヒットが次々に出てくるがこれもまた次の機会に語ることにします。
さてフィラデルフィア出身の有名な歌手と言いますと「アメリカンポップス伝」の初回、No.1ヒットの2曲目に登場しておりました。マリア・ランザの「Be My Love」(51年)がかかる。彼と家族ぐるみの付き合いがあったアル・マルティーノも翌52年歌手デビューして1位を獲得しました、と言って「Here In My Heart」がかかる。アル・マルティーノは映画『ゴッド・ファーザー』でシナトラの役で出て歌を歌ってましたよね。 実際彼はフィラデルフィアのイタリア系のミュージシャンのゴッド・ファーザー的存在だった。 フィラデルフィアにはボブ・マルクーチとピーター・デアンジェリスというイタリア系の作家コンビがいて彼らも53年頃から活動を始めていて57年に自分たちのレコード会社、チャンセラーを作った。そこで最初に出たレコードはCozy Morleyの「I Love My Girl」。作曲はボブ・マルクーチとピーター・デアンジェリス、ABCレーベルから発売され62位になりチャンセラーとしては順調なスタートを切ったことに。3枚目のシングルも地元の女性シンガー、ジョーディ・サンズの「With All My Heart」 でした。このようなウキウキする陽気なイタリアン・サウンドはドン・コスタが第一人者だと思っていたが実はこの作者のピーター・デアンジェリスも負けていませんね。ドン・コスタのサウンドもひょっとするとこのピーター・デアンジェリスが作ったのではないかと推測されていました。このピーター・デアンジェリスのサウンドをドン・コスタはABCパラマウントに取り入れましてイーディ・ゴーメが「Love Me Forever」を歌いました。それまで彼女はチャートは低迷していたが、これは24位まで上昇しました。ドン・コスタもこれまでは同様のサウンドだったがピーター・デアンジェリスのサウンドは相当な刺激になったのではないか。
これで軌道に乗ったチャンセラー・レコードのプロデューサー、ボブ・マルクーチはポール・アンカやリッキー・ネルソンをテレビで観てこれからはイケメンの男の子だと思いフィラデルフィア中の男の子を物色して歩いたということですが、その時にフランキー・アヴァロンと出会った。アヴァロンはこの時既にレコード・デビューしていた。しかもトランペッターとして、と言って「Trumpet Sorrent」がかかる。54年にこのレコードでデビューしていたがレコード面には「トランペットのソロは11才のフランキー・アヴァロン」と書かれていた。ここから3年後の1957年、マルクーチはアヴァロンに歌手にならないかと持ちかけたがアヴァロンの答えはノーで「ぼくはトランペッターで歌は自信がない」ということでした。しかしマルクーチは何とか説き伏せてレコーディングに持込み、アレンジ、セッション・リーダーはアル・カイオラという一流どころを揃えたが、大瀧さん曰く「これがアメリカン・ポップス史上、開闢以来でした。」と言ってアヴァロンの初レコーディング曲「The One I Love」がかかる。あまりの下手さに途中、失笑が入り、「ちょっと勘弁ですね・・それにしても凄いですね」と言って途中まで紹介していました。流石のスタッフも頭をかかえこんだと思いきや、 天下のボブ・マルクーチ、こんなことではへこたれない、「これからはテレビ、観た目だ。歌なんかどうでもいい、イケメンなら絶対に売れる」という確信を持っていた。バラードだと下手がばれるのでロックン・ロール路線でいこう、ということになり「Teacher's Pet」?がかかる。大瀧さん曰く、「ロックン・ロールでも十分に下手ですが」とコメントして次の二枚目半、コミカル路線でということになり鼻をつまんだような声の「De De Dinah」がかかる。これがなんと7位と大ヒットとなる。R&Bでも8位だった。これが「オコチャマ・ロック」の第1号と言っていいでしょう。次の曲も二枚目半路線の「Gingerbread」(ショウガ・フレイムのお菓子) が紹介されます。まさにこれは子供用の歌ですね。ポップで9位、R&Bで10位とビッグ・ヒットとなりここでリッキー・ネルソン、ポール・アンカに続いてフランキー・アヴァロンはティーンエイジ・アイドルの仲間入りを果たしました。日本で言うならば初代アイドルの御三家ですね。三人とも57年にデビューとなりました。
フランキー・アヴァロンは余裕からでしょうか、歌うことに欲がでてきて丁度その頃、エド・マーシャルからアル・マルティーノ用に書いた曲を聴かされ「それ、ぼくが歌うよ」ということになって発表されたのが「Venus」でした。これがなんとNo.1になった。アヴァロンとしてもチャンセラー・レコードとしても初のNo.1でした。これは歌よりもピーター・デアンジェリスのアレンジの力が大きいと思いますね。こうなるもしこの歌をアル・マルティーノが歌っていたらどうなっていたかという例でイギリスの歌のうまい歌手、リッキー・ヴァレンタインの「Venus」が紹介される。アル・マルティーノが歌っていたらこんな感じになっていたがそれを決してうまくないアヴァロンが歌うことによってティーン歌謡というジャンルができていってそれが60年代ポップスの始まりになったともおっしゃっていました。この「Venus」のサウンドをドン・コスタはまたABCパラマウントのサウンドとして仕立て上げたのでした。 スティーブ・ローレンスの「Pretty Blue Eyes」がかかる。ABCパラマウントへ移籍後の初のヒットでTOP10に入るヒットとなった。これもアレンジの原点がピーター・デアンジェリスのサウンドだった。このサウンドは次はアルドン出版社のトレードマークとなるがそれは60年代ポップスのコーナーで取り上げてみたいと思います、とおっしゃっていました。(うーん、ここが一番聞きたい!)
さてチャンレラーの話しはここまでとしてフランク・スレー=ボブ・クリューのその後はどうなっていたかと言いますとスワン・レコードの依頼で新人探しをしていた。ボストンのDJが送ってきたレコードの中にSpindriftsというグループがあったがこれがスレーとクリューの目に止まりました。「Cha-Cha-Do」がかかる。このレコードはABCパラマウントが原盤を買い取って発売されたがグループがすぐに解散してしまってこのグループのリード・シンガーの新しいグループを作りました。グループ名はFreddy Kamon & Hurricanesというもので曲のタイトルは「RockIn Roll Baby」というものでした。それをフランク・スレーとボブ・クリューはタイトルを変えるように進言してボストンに出かけて録音しました、と言って「Tallahassee Lassie」 が流れます。(ここがサイコー!)これが6位の大ヒットでした。何と言っても途中のバス・ドラムのサウンドが印象的でした。ローリング・ストーンズの「Brown Sugar」はこれからヒットを得て作ったという話しは有名ですがこのバス・ドラムは後でダビングしたものなんです。しかも足で踏んでいるのだはなくマレットで叩いている。それから「ヒュー!」というリトル・リチャード風かけ声と「ア、ウー」というコーラス、更に手拍子も全部後で入れたものだったんです。つまり印象的なものはほとんど後処理によるものだった、と言って曲の途中からが流れる。元のオリジナルにはあれらはなかったものをディック・クラークがバス・ドラムを入れてみたらどうかというアイデアを出したそうです。それにスレイとクリューが手拍子とコーラスを入れてあのようなボンピング・サウンドが生まれたということでした。その後ニュー・ヨークでこの曲の再録音を行いました、と言ってブラス・ヴァージョンの「Tallahassee Lassie」がかかる。ステレオですと手品がバレバレですね。ロックン・ロールはモノに限りますね。これは第3弾ヒットの後に録音されたものでしたが、その第3弾ヒットとはフレディ・キャノンの新しいスタイルとなったところのビッグ・バンド・ロックン・ロールでした、と言って「Way Down Yonder In New Orleans」 がかかる。アル・ジョンソンが歌っているのを観たスタッフがこれ、歌ったらどうかと進言したそうですが、なんとこれが3位となる大ヒットとなる。この後もフランク・スレーとボブ・クリューはフレディ・キャノンの曲をプロデュースし続ける。
さてフィラデルフィア・レコードの最初に登場したのはカメオ・レコードでしたがチャーリー・グレイシーの「Butterfly」がNo.1となった後、カメオからは大ヒットが全くでなかった。しかも地元のスワンやチャンセラーからは次々にヒットがでて先頭を走っていたはずのカメオ・レコードは後塵を排すことになる。しかしここにきてようやくカメオからもティーン・アイドルが生まれました。それがボビー・ライデルです、と言って「Kissin' Time」が流れます。チャック・ベリーの「Sweet Little Sixteen」を思わせる歌ですがこれはB面だったが11位にランクされてボビー・ライデル初のヒットとなりました。1曲ヒットがでると歌唱力は段違いにありますから次々とヒットを連発します。「Wild One」がかかる。これは2位だったがサウンドはもうフレディ・キャノン、モロのいただきですね。フィラデルフィア戦争に突入したわけです。同時期に出た本家の「Chattanooga Shoe Shine Boy」は34位止まりと後発のボビー・ライデルの勝利に終わりました。 次の路線もフレディ・キャノン路線を突っ走ります。「Swinging School」がかかる。これは5位と大ヒットで同時期のフレディ・キャノンの「Jump Over」は28位と完全に持ってかれました。フレディ・キャノンのここから低迷期が続くボビー・ライデルは更なる変化を遂げます。58年にイタリアの歌手、ドメニコ・モドーニョが歌った「Vovare」全米1位になりましたが同じイタリア系のディーン・マーチンのヴァージョンも12位とヒットしました。それをボビー・ライデルがカヴァーして堂々の4位にランクされました。最後の曲としてボビー・ライデルか歌う「Volare」がかかる。
フィラデルフィア出身、イタリア系歌手、マリオ・ランツァ、アル・マルチーノ、今晩のフィラデルフィア物語、同じくイタリタ系のフランキー・アヴァロン、最後もイタリア系のボビー.ライデル「Volare」で本日はおしまいです。57年から始まった新しいポップスの聖地フィラデルフィア・サウンドの第一部はこのあたりで終わりまして60年に入りますと新たな戦いが待っているのですが、これは明日ちらりと触れることになるのですのでお楽しみに、と言って第3夜は締め括られました。いやー、見事なシナリオ作家でしたね。



Thu. 28 March 2013
【第4夜】4日目の本日は1950年前後にロックン・ロールのルーツとなったレコード会社が沢山あったが、その中からキング・レコードを選んでお送りしたいと思います。題して「キング・レコード物語」、それでは先ず三橋美智也さんの「りんご村から」と言ってボケを入れておりました。先ずTiny Bradshowの「The Train Kept A-Rollin'」がかかる。オハイオ州シンシナティにあったキング・レコード、会社創立1943年で最初はカントリー中心にリリースしていたが50年代に入るとR&B色を強めていきロックン・ロールの源流を作ったアーティストを沢山輩出しました。この会社は有能なディレクターを沢山採用し、先ずヘンリー・グローバー、彼はキングのスタジオ建設にも関わって「The Train Kept A-Rollin'」も手掛けたキング・サウンドの基本を作った人です。キング・レコードは1950年にR&B専門の子会社、フェデラルを作りそこにサボイ・レーベルで働いていたラルフ・バスを呼んできます。彼が最初に担当となったグループは♪「Sixty-Minute Man」♪でお馴染みのBilly Ward & Dominoesでした。そしてリーバー=ストラーの曲をかなり早くに取り上げていたのもこのラルフ・バスでした、と言って「Kansas City」の元歌、「K.C.Loving」がかかる。歌っていたのはLittle Willie Littlefield(どれだけ小さい人なんでしょうというコメントが面白かった)という人でリーバー=ストラーが付けたタイトルは「Kansas City」だったがディレクターが「K.C.Loving」という題名に変えた。このレコードのリリースは1952年ですからまだ「Hound Dog」を書いていない時期で、この頃からリーバー=ストラーの才能を見抜いていたラルフ・バスという人はレスター・シル、ネスティ・アーティガンと並んで慧眼の士ということでした。他にもいろいろリーバー=ストラーに書かせたがどれもヒットしなかったのでこの関係は終わったが、もしここで成功していたら、リーバー=ストラーはアトランティックではなくキングで仕事をしていたかもしれません。ラルフ・バスが次に担当したのが♪Work with me Annie♪のヒットがあるMidnightersでした。そこからアニー・シリーズがはじまり第2弾は「Sexy Ways」でした。これは2位となるヒットでした。54年にはTOP10ヒットが4曲もあったHank Ballard & Midnightersは人気グループでした。このMidnightersはデトロイトで結成されたグループでこのグループのハンク・バラード、ドミノズのジャッキー・ウィルソン、二人ともデトロイトで育ちました。そして同じくデトロイト出身のLittle Willie Johnが56年にNo.1ヒットを飛ばす。「Fever」がかかる。作ったのはオーティス・ブラックウェルで彼は「火の玉ロック」や「Don't Be Cruel」等名曲揃いでしたが「Fever」のプロデューサーはヘンリー・グローバーで彼が以前から担当していたアーティストにキーボード奏者のBill Doggettがいました。56年になってロックン・ロール時代の到来でその雰囲気を取り入れてアレンジした「Honky Tonk」がR&Bで1位、POPでも2位になるというビッグ・ヒットとなった。それまで全くヒットのなかったビル・ドゲット楽団の大ヒットでここからロック・インストの時代が始まったと言っていいでしょう。続く第2弾は「Slow Walk」でPOPでは26位でしたがR&Bでは4位とR&Bファンには好評でした。ダイヤモンズの「Stroll」はこれを元にしているように感じられる。
ラルフ・バスと同じ頃にサボイ・レコードでディレクターをしていたのがバック・ラムです。彼はバンド・リーダーで作曲家でしたが51年にロスでプロダクションを始め、インク・スポッツを想定して書いた自分の曲を歌わせるグループを探していてそのグループをキングに売り込みました。そのグループは7枚もシングルを出したが全く売れず最後の7枚目となったシングル盤はこの曲でした、と言って「Only You」のフェデラル録音がかかる。聞き慣れたプラターズの「Only You」とはかなり違って聴こえますがいくつかヴァージョンがあって何度も何度も歌わされたそうです。途中リード・シンガーの♪「アッ、ハー」♪ではバック・メンバーは一斉に笑ったそうですが、これが聴かせ所となるので世の中何が功を奏すか分からないですね、と語っていました。ところが結局これもヒットしなかったのでキング・レコードの社長は契約を切ってしまった。しかし作者のバック・ラムは諦めません。丁度その頃、♪Earth Angle, Earth Angle♪のペンギンズのマネージメントも引き受けることになり、マーキュリーに売り込む際、抱き合わせでプラターズも付けた。プラターズはペンギンズの付け合わせだった。1955年4月26日、ロサンジェルスのキャピトル・スタジオで再録音されたところの「Only YOu」はマーキュリー・レコードから発売されました。デモのヴァージョンでは♪「アッ、ハー」♪は1度しかないが、2度あるのがミソですね。R&Bでは当然1位でしたがPOPでも5位でした。ここからプラターズはジャンジャンヒットを飛ばしていくことに。ちょっと前まではプラターズより圧倒的に有名だったペンギンズですがマーキュリーに移籍してからは全くヒットがでなくなった。キング・レコードの社長もドル箱をみすみす逃し相当悔しがったと思います。こういうことの多いのがキング・レコードの特徴ともいえます。捨てる神あれば拾う神ありでフェデラル・レコードからこの人がデビューしました、と言ってジェームス・ブラウンの「Please, Please, Please」がかかる。もっともこのジェームス・ブラウンも社長のシド・ネイザンは気に入らなかったそうですがラルフ・バスがプッシュしたので契約したということでした。社長は危うく同時に大魚を逃すところだった。ジェームス・ブラウンの第2弾はニュー・ヨークのミュージシャンを使って同じバラード路線の「Try Me」でした。うーん、いいバラードですね。これはR&B1位、POP48位にランクされた。因にこのドラムを叩いていたのはパナマ・フランシスといってコニー・フランシスの「カラーに口紅」も叩いていて当時一番セッション数の多いドラマーでした。ジェームス・ブラウンはアポロ・シアターでラルフ・バスが観て契約したが、同じ時期のアポロで人気のあったアーティストにジョー・テックスもいた。こちらはヘンリー・グローバーが契約してキング・レーベルから発売され同じ会社内でディレクター同士の戦いとなった、と言って「Come In My House」がかかる。JBとジョー・テックスは同じ会社の同期デビューだった。ジェームス・ブラウンは最初からヒットとなったがジョー・テックスは13枚連続ヒットせずという不名誉な大記録を打ち立て、初ヒットが出たのがデビューから10年後の65年のことでした。実はジェームス・ブラウン、ジョー・テックスよりアポロで人気のあったのはFive Royalesでした。結果的にこのFive Royales、ジェームス・ブラウン、ジョー・テックスは全員キング・レコードに集まったことになる。しかしFive Royalesもジョー・テックス同様全くヒットしなかった。57年になって漸く初めてキング・レコードにきてからヒット曲が出ました、と言って 「Tears of Joy」がかかる。これは9位となり彼らもこれで漸く面目が保たれたという感じでした。このグループのリーダー、ローマン・ポーリングはギターリストで作曲もします。次の楽曲のオリジナル・グループだったことで後で有名になりました、と言って「Dedicated To The One I Love」がかかる。これはシュレルズがカヴァーして3位、ママズ&パパスの邦題「愛する君に」は2位にランクされ大ヒットとなったがその曲のオリジナルはこのFive Royalesで作曲はローマン・ポーリングでした。Five Royalesにはこのようなバラードだけでなくアップ・テンポのヴァージョンもありました、と言って「Think」が紹介される。この曲も9位となる大ヒットでPOPでも66位にチャートされた。これは曲よりもギター・スタイルが他のギターリストに与えた影響が凄かった。後にMG'sのギターリストとなるスティーブ・クロッパーはメンフィスに来たFive Royalesのステージを観てこのローマン・ポーリングのギター・フレーズばかりではなく、ギターの持ち方とか弾き方にも強い影響を受けたと発言していた。言われてみれば「Green Onion」の原点はこれだと思う。「Think」に続いてのシングルは「Say It」でこのローマン・ポーリングのギター・スタイルには随分影響されたギターリストは多いと思います。続いての曲はアップ・テンポものの続編とも言える「Slummer the Slum」というものでした。タイトルに「スラム」という言葉が入っていることも斬新でした。この曲はB面だったが発表されたのは58年で時代的に斬新なアレンジですね。後にファンキー・サウンドと呼ばれる最初の曲ではないかという説を唱えている人もいます。Five Royalesに影響を受けたジェームス・ブラウンはこの「Slummer the Slum」風アレンジで「Think」をカヴァーしました。これは凄い曲ですね。それまでバラード・ヒットが多かったジェームス・ブラウンがこの曲で一気にリズム路線をスタートさせました。これが発表されたのは60年4月、R&Bチャートは7位、POPでも33位でした。この楽曲の持っている意味はチャート以上のものがあります。オリジナルの「Think」とは全く別ものになっているがこの後ジェームス・ブラウンはこの路線を突き進めて沢山の名曲を出したが原点はこの曲だった。ホーンの絡ませ方とリズム隊、特にドラムがヘタウマというか不思議なフレーズを叩いている。ドラマーはナット・ケンドリック。この初代ドラマーを見つけてからはバンドのメンバーも定着していき、「Think」の後にドラマー名義のシングルが発売された、と言って「(Do The) Mashed Potatoes」がかかる。これはマッシュポテトというダンスですがキーボードを弾いていたのはジェームス・ブラウンでバック・バンドが演奏していた。バンド名義がナット・ケンドリックとスワンズという名前でリリースされたのがキングからではなくマイアミのマイナー・レーベルから出た。何故ならキングの社長がジェームス・ブラウンにインストはダメだと言ったので別名で別レーベルから出した。ところがこれがR&Bチャートで8位となり84位ではあったがPOPチャートにも登場した。この頃ダンス・ブームがいかに凄かったかということです。ジェームス・ブラウンという人はいろんな楽器をこなす人ですが自分でドラムも叩くので特にドラマーへの要求は厳しく次々にドラマーを変えていった。ここでかなりテンポ・アップされた「Think」の62年アポロ・シアターのライブ・ヴァージョンをかける。ドラマーはクレイトン・フィリアルという人でこの人がドラムを叩いている曲、「I've Got Money」を聴いてみましょう。この曲は62年ということですからこのドラミングは衝撃的なアンサンブルなんです。このクレイトン・フィリアルはフロリダの出身でニュー・オーリンズから来たグループの演奏を観てそのグループのドラマーから直接教わったと彼は語っています。そのグループとはヒューイ・スミス&クラウンズ、ドラマーはチャールス・ハングリー・ウィリアムス、と言って 「High Blood Pressure」がかかる。このドラマー、いつもお腹を空かしていたんでしょうか、ハングリー・ウィリアムス、彼の音は非常に太い。右足を怪我をしていた時に左足でバス・ドラムを踏んでいたというパワー・ドラマーでした。ジェームス・ブラウンの初代のドラマー、ナット・ケンドリックも間違いなくこのドラマーの影響を受けていた。ではヒューイ・スミスの先達であるところのニュー・オーリンズのプロフェッサー・ロングヘアーの音を聴いてみましょう、1953年の「Tipitina」がかかる。この複雑なドラムを叩いているのはアール・パーマーです。ドラムのフレーズは大体こんな感じではないか、と言ってアール・パーマーのドラム・パターン(1部)が紹介される。これをテンポを早くしてみましょう、と言ってやや早回しでかける。で62年、ジェームス・ブラウンの「I've Got Money」をもう一度、と言ってそのドラミングの一部を切り出して紹介し、またまたアール・パーマーに戻って紹介し、テンポを早くしただけでドラムのアンサンブルはほとんど同じということを解説してくれました。この2曲(「I've Got Money」と「Tipitina」) の間には9年という歳月があるが、原点が持っている構造の強さを感じるとおっしゃていました。しかしテンポ・アップというのもポップスの歴史にとって新発見で革命的だったとも付け加えていました。ジャズ時代のビートは4ビート、60年代には倍になって8ビート、70年代には更に倍になって16ビートになります。流石に32ビートは流行らなかったがこれはbit数ということでコンピューター業界にいったと思う。
またここで「Think」の一部がかかり、次のように解説しておりました。その後時代のリズムが変わる度この曲はアレンジしてセルフ・カヴァーしました。60年代ポップスの時代にあって既にこの路線を始めていたジェームス・ブラウンは偉大な先駆者でありました。「Think」の曲がかぶる。
さてジェームス・ブラウンの話しはここまででハンク・バラードとミッドナイターズを再び取り上げます。54年にTOP10ヒットを連発してスーパー・グループの仲間入りを果たしたところまではお話ししましたが、その後ぴったりとヒットがでなくなって58年には契約が切れてしまった。そこでデモ・テープ作りにジェームス・ブラウンがおしのびで録音したスタジオと同じマイアミのスタジオに出かけることに。このスタジオのオーナーはヘンリー・ストーン。彼は20年後にマイアミ・サウンドで大もうけをすることになる。そのハンク・バラードが吹き込んだデモ・ソングとはこの曲でした、と言って「The Twist」のデモ・ヴァージョンがかかる。もっともこの曲は自作の「Is Your Love For Real」を改作したものといってこの曲もかかる。しかしこの曲もドリフターズの「What'Cha Gonna Do」からのいただきでした。このドリフもゴスペル・グループのRadio Fourというグループからのいただきで・・・もういいですよね、と言ってポップスは実は奥が深いんですと結んでいました。このデモを作ったハンク・バラードはキングがいやだったのかヴィージェイ・レコードに売り込みました。ところがこの話しを聞きつけたキング・レコードの社長、シド・ネイザン、ハンク・バラードの契約が切れていないと言い出した。そこでキングによばれたハンク・バラードはシンシナティにホイホイと帰っていった。歌詞も大幅に変更してキングのスタジオで再吹込みしたのが「The Twist」でした、と言ってお馴染みの曲がかかる。デモ・ヴァージョンとは大違いの素晴らしい出来でした。58年11月の録音ですからデモを録ってから半年後の再録音でこの間に曲を練り直していたのではないでしょうか。出だしの♪Come on baby♪ってのがよかったですね。これがミソで歌い出しが違いましたから。キング・レコードではカップリング用のバラードも録音されました、と言って「Teardrop On Your Letter」がかかる。この曲がカップリングだったが「Twist」はB面だった。このA面となったバラードはR&B4位となってシングルとしては大成功でした。ハンク・バラードとしては5年ぶりのTOP10ヒットでしたから見事に復帰が叶ったということになりました。このヒットがあった後、ミッドナイターズはボルティモアの劇場で公演があった。その時、ボルティモアの若者がツイストに熱狂して会場が興奮状態になった。ボルティモアと言いますと「アメリカン・バンドスタンド」と同じダンス番組の「バディ・ディーン・ショー」(映画『ヘアー・スプレー』のモデルになった番組)の土地なんです。あの映画は2本あって最初のものの設定は1963年で当時の音楽やダンスを忠実に再現していて資料性が高い映画です。でこのミッドナイターズのツイスト・ブームはあの映画の4年前ということになります。とにかくボルティモアでのツイストは大人気でDJもB面をかけ始めた。一ヶ月後にR&Bチャートに登場し16位にまで上がるヒットとなった。(ここでまた「Twist」の一部がかかる)夢の両面ヒットですからハンク・バラードとしては5年前を思い出してカンバックの余韻に浸っていたのではなでしょうか。但しヒットはR&Bチャートだけでボルティモアという地方のみの盛り上がりでこの時はツイストに全米が注目するというところにいかなかった。しかし第一次ツイスト・ブームは59年に起きていました。次にフィンガー・ティップ(指を鳴らして擬音を出してみる)、擬音を入れたダンス・ナンバーを作ったがそれが大ヒットしました、と言って「Finger Poping Time」がかかる。この曲は60年5月にチャート入り、じわじわとチャートが上がってきました。その時、ディック・クラークから声がかかりました。6月22日の「アメリカン・バンドスタンド」に出演してFinger Poping Time」を歌いました。その後にグングンチャートが上がって8月にR&B2位、POPでも7位まで上がった。この勢いでキング・レコードがツイストの良さに気が付いて1年前のAB面をひっくりかえして再発売した。7月にチャートに登場し、R&B6位、POPでも26位にランクされた。(再び「The Twist」がかかる)今度は全国的に広がりはじめたツイスト・ブーム、ディック・クラークが黙ってみている訳はありません。ハンク・バラードではなく、地元のフィラデルフィアでツイストを歌うシンガーを探し、そこに現れたのがディック・クラークに気に入られて59年にデビューしていたこの人でした、と言ってチャビー・チェッカーのデビュー・シングル「The Class」がかかる。これはB面ですがチャビー・チェッカーの初ヒットでした。途中のファッツ・ドミノの物真似はうまかったですね。この人、とにかく物真似が得意でファビアンとクラスメイトだったそうです。ですからチップマンクスのところで♪フェビアーン♪ってのをやってましたけどね。要するにチャビー・チェッカーは物真似のうまいクラスの人気者だったわけです。それをディック・クラークがこのような曲を歌わせてデビューさせた。物真似がうまいからハンク・バラードの「Twist」もうまく歌えると思ったんでしょうね、と言ってチャビー・チェッカーの「The Twist」がかかる。これはカヴァー・ヴァージョンというよりも物真似ヴァージョンですね。流石にチャビーは物真似がうまいです。特に歌い出しはそっくりですね、と言ってハンクとチャビーの歌い出しの部分をかける。どっちか分からないですよね。チャビー版がラジオでかかった時にハンクは自分のがかかったと思ったほど似ていた。チャビー版の「The Twist」は8月にチャートに登場しダンス番組の「クレイ・コール・ショー」に出たところ効果適面で本家を悠々と抜いてNo.1になった。その後ディック・クラークの「アメリカン・バンドスタンド」に出てこの「The Twist」の歌手であることを確定付け、物真似の方が本家を凌いでツイストの本家となった。「The Twist」を奪われたハンク・バラードですが、めげずにダンス・ナンバーの新曲「Let's Go, Let's Go, Let's Go」をリリースしました。これはハンク・バラード初のR&B1位、POPでも6位と「Finger Poping Time」以上のヒットとなった。そこで調子に乗って「Let's Go」よ再びとばかりに「Let's Go Again」という曲を作りました。これはR&B17位、POP39位とまずますのヒットでしたがこの中に「Let's Rock Again」とありました。この曲と内容によく似た曲がこの後に登場しました、と言って「Let's Twist Again」がかかる。ここがこの日のハイライトかも。えー、「Let's Ondo Again」ではなく「Let's Twist Again」でしたがなんとこの曲までもアイデアはハンク・バラードからいただいたというものでしたが曲は非常によくできています。チャビー初のオリジナル・ツイストと言ってよいのでは。「真似も超えればオリジナル」と言ったのは黒澤明監督の名言ですがまさにこの「Let's Twist Again」はそれだったと思います。この後ツイスト・ブームは61年末に再燃するんです。そしてこのチャビー版「The Twist」が再び1位に輝き同じ曲の連続首位獲得というアメリカン・ポップス史上における不滅の大記録となってしまった、というところでエンディングでした。
総括としてキング・レコード物語の骨子、クライド・マックファーター、ジャッキー・ウィルソン、プラターズ、「カンザス・シティ」や「オンリー・ユー」「ツイスト」と目の前にありながら取り逃してしまったキング・レコードでしたがロックン・ロールの歴史を作った重要なレコード会社でしたので取り上げていました、ということでした。ふー、お疲れさまでした。



Fri. 29 March 2013
【第5夜】本日はパート3の最終日ということでパート1で特集しましたロックン・ロールの故郷、メンフィスのその後についてお話ししていこうと思います。55年秋にエルヴィスが去りますが56年にはカール・パーキンスの「Blue Suede Shoes」がNo.1、57年に登場したジェリー・リー・ルイスはエルヴィスに次ぐ人気者となりました。更にビル・ジャスティスのインスト「Raunchy」もNo.1を獲得とエルヴィスが去った後もサン・レコードからは次々とヒットが出ていました。ジョニー・キャッシュも安定したチャート・アクションを見せていてそこにロイ・オービソンもやってきました。「Ooby Dooby」がかかる。これがPOPチャート59位に入り好調な滑り出しをみせたのですがそれ以降ロイ・オービソンはばったりとヒットがでなくなった。オービソンの第2弾ヒットは「Rockhouse」 でした。この曲を作ったのはオービソンではなくエルヴィスを夢見てサン・レコードの門を叩いたハロルド・ジェンキンスという若者でした、と言ってハロルドの「Rockhouse」がかかる。作者である本人のこのヴァージョンはリリースされずにサム・フィリップスはロイ・オービソン用に回してしまったが、ヒットせずハロルド・ジェンキンスはサン・レコードから1枚もレコードを出すことなく去っていった。彼はその後マーキュリー・レコードと契約してシングルを出しましたがヒットせずMGMレコードと契約して最初に出たシングルが大ヒットしました。「Only Make Me Believe」がかかる。コンウェイ・トゥエッティ、本名ハロルド.ジェンキンス。58年9月にチャートに登場してNo.1に輝きました。R&Bでは12位。録音はナッシュヴィルのブラッドリー・スタジオ、ギターはグラディ・マーティン.ピアノはフロイド・クレーマー、コーラスはジョーダネーヤーズというラインでした。メンフィスからナッシュヴィルへ、コンウェイ・トゥエッティもエルヴィスの歩んだ道を辿ったことに。同じ時期のジェリー・リー・ルイスは「Break Up」というシングルを出していたが最高位が52位止まりでした。「Break Up」がかかる。57年には2位、3位というヒットを沢山出していたジェリー・リー・ルイスですが58年は5曲チャートには入っていますが7位が1曲で他の4曲は全部TOP20以下でした。ジェリー・リー・ルイスのいい時期というのは1年半くらいだった。一方、サン・レコードではシングルさえ出してもらえなかったコンウェイ・トゥエッティの方が1位を獲得したという皮肉な結果となった。
この頃サン・レコードからはカール・パキンスとジョニー・キャンシュもコロムビアに移籍し相次いで去っていった。サン・レコードもよかったのは56年から3年くらいでまさにこれもロックン・ロールの誕生と衰退を象徴しているように思われます。それでもサン・レコードからは59年、新人のカール・マンを呼んできて録音させた「Mona Lisa」がPOPチャートで25位と健闘しました。エンディングのギターがいいですね。ナット・キング・コールのバラードをロックン・ロールにアレンジしたものです。このカール・マンはナット・キング・コールのロックン・ロール路線を続けることになる。「Pretend」「Too Young」もロックン・ロールにしました。このカール・マンの「Mona Lisa」のヒットに目をつけたのがコンウェイ・トゥエッティです。「Mona Lisa」をカヴァーしたところ、本家カール・マンの1ヶ月後にチャートされた。こちらは♪モナリザ、モナリザ♪と濁って発音されていましたが最高位が29位とオリジナルに負けてしまった。コンウェイ・トゥエッティはよほど悔しかったとみえて新曲も同じ路線でいくことになった。取り上げた曲はアイルランド民謡の「Danny Boy」でこれはカール・マンが第2弾の「Pretend」を出してくる前に発売したところ、POP10位にランクインした。本家カール・マンの「Pretend」は57位に終わってコンウェイ・トゥエッティは「Mona Lisa」の敵を「Danny Boy」で討ったということになった。その余勢を駆って出したシングルが「Lonely Blue Boy」でした。ギターはグラディ・マーチンでこれも6位と大ヒットとなった。歌い方がエルヴィスそっくりですがエルヴィスになりたくてサン・レコードの門を叩いた訳ですから似ているのは当然でしょうが理由はそれだけではなく、この曲の作者がフレッド・ワイズとベン・ワイズマンというエルヴィスの常連の作家チームだった。しかもこの歌はエルヴィスも歌っていたんです、と言ってエルヴィスの「Danny」がかかる。こちらのタイトルは「Danny」で映画『闇に響く声(King Creole)』用に吹き込まれたが映画には採用されなかった。そこで作者がコンウェイ・トゥエッティ用に「Lonely Blue Boy」と書き直したのでエルヴィスに似ているのは当然のことでした。しかしコンウェイ・トゥエッティの濃い歌い方を聴いた後でエルヴィスを聴くとあっさりした感じに聴こえるが本家というものは意外にあっさりしているものということでした。この後コンウェイ・トゥエッティは世のエルヴィス・フォロワーと同じく映画に進出することになるが彼についてはここまでといたします。
さてサン・レコードにはヒットのないアーティストがいっぱいいたがレイ・ハリスもその一人でした、と言って 「Come On Little Mama」がかかる。このレイ・ハリスは早々とミュージシャンに見切りをつけてプロデューサーに転身します。最初にプロデュースしたのはジェリー・リー・ルイスのいとこ、カール・マクボイで彼がステージで♪「You Are My Sunshine」♪をロック・アレンジで歌っているのをみて早速そのデモ・テープを作った。「You Are My Sunshine」が紹介される。このレイ・ハリスはお金をかき集めて自分のレコード会社を作ってこの曲を第1号とし、名前をHi Recordとしました。57年12月のことでした。ところがそのHiRecord、早々と資金繰りに困ってサン・レコードのサム・フィリップスに原盤を買ってもらうことによってピンチを凌ぎました。メンフィスの古い映画館を改装してHi Record Studioとしました。更にAMPEXのテープレコーダーも手に入れました。映画『ラスト・ショー』の映画館が閉館したのは52年という設定でしたがHi Studioは58年ですから更に辞める映画館が増えていったということでしょうか。ところがこのHi Record、発売した16枚のレコードがことごとく売れません。そこでスタジオのレンタル業を始めた。当時メンフィスの周りにはサン・レコードの成功でレーベルを持つ人が沢山いました。ところが彼らはスタジオを持っていません。ですからHi Recordのスタジオレンタル業は順調でした。DJをやっていたエディ・ボンドという人はストンパー・タイムというレーベルを始めたがスタジオがなかったのでHi Recordのスタジオを使って自分のレコードを出した、と言って「Boo Bop Da Caa Caa」 が紹介される。間奏のギターは若き日のレジー・ヤングです。このストンパー・レーベルからは次々と新人アーティストが登場しましたが、その中にウィリー・ミッチェルがおりました、と言って「The Crawl」がかかる。58年6月の録音ですがローカル・ヒットとなってメンフィスの音楽関係者にミッチェルの名が知られるようになった。トランペッター、アレンジャーでもあったウィリー・ミッチェルは55年頃から自分のバンドを持って活動していた。バンドのメンバーはベースがルーイ・スタインバーグ、ドラムはアル・ジャクソンでした。では「The Crawl」のカップリング曲を聴いてみましょう。「Bongo Beat」がかかる。58年の録音ですが既に後のメンフィス・サウンドの特徴である圧縮感のある音になっています。Hi Studioではこの後2台目のAmpex Recorderを買い入れて8チャンネル録音を行ったりしていた。このストンパー・タイムより1年前に作られた会社があってそれをファンウッド・レコード(Fernwood Records)といった。作ったのはトラック・ドライバーでミュージシャンのスリム・ウォレスで自宅を改造してスタジオを作り第1号のビリー・リー・ライリーの「Trouble Bound」がかかる。このテープをサン・レコードに持ち込んだところサム・フリップが気に入って原盤を買い取ってくれサン・レコードから発売されました。このファンウッド・レコードにキング・エルヴィスのギターリスト、スコッティ・ムーアがやってきます。エルヴィスは入隊したので仕事がなくなったのですね。ファンウッド・レコードはこのスコッティ・ムーアを副社長兼プロデューサーとして迎いいれました。慣れないプロデューサー業務でなかなかヒットがでなかったが、唯一の大ヒットが「Tragedy」でした。歌っていたのはトーマス・ウェイン、後にエルヴィスに楽曲を提供しましたがエルヴィスのハイスクールの後輩なんです。学校時代にバンドを組んでいたがそのメンバーにチップス・モーマンがいました。このトーマス・ウェインの「Tragedy」は59年1月にチャートに登場し、POP5位になる大ヒットでした。ブレンダ・リーやジョニー・ティロットソンもカヴァーしていますが、一番有名なのはフリードウッズで10位になっていました。この大ヒットでプロデューサー、スコッティ・ムーアも面目を保ったというところでしょうか。このファンウッド・レコードからはスコッティ・ムーア自身のレコードも出しています、と言ってスコッティ・ムーア・トリオを力強く紹介しています。ギター:スコッティ・ムーア、ベース:ビル・ブラック、ドラムはD.J.フォンタナ!と紹介して「Have Guitar Will Travel」がかかる。キング・エルヴィスが不在の間にバックのトリオが演奏したという貴重なレコードだった訳ですが、このスコッティ・ムーアのプロデュース業務に刺激されたのでしょうか、ビル・ブラックも自分のバンドを作りたいということでHi Recordのレイ・ハリスのところへ相談にいきました。レイ・ハリスとビル・ブラックはサン時代の同僚だったのでメンフィス中のミュージシャンを物色してバンドを編成、ギターにレジー・ヤング、ドラムにエディ・アーノルドの甥、ジェリー・アーノルドなど意気のいい若者を集めてBill Black's Comboとしてレコードを発売しました。「Smokie Part.2」は1960年のお正月からヒットしはじめてR&Bで1位、POPでも18位というビッグ・ヒットとなってメンフィス生まれのインストとしては「Raunchy」に続く歴史的なヒット曲をHi Recordが作り出したことになった。しかしそのデビュー・ヒット直後にメンバー交代が起き新しいピアノ・プレイヤーにはカール・マクボイ、サックスにはエース・キャノンが加わってハモンド・オルガンをフィーチャーした第2弾シングルを発売します。それが「White Silver Sands」というインスト曲でR&B1位、POP9位と前作を上回る大ヒットでした。でBill Black's Comboは超人気バンドとなった。こうなりますともう押せ押せです。ビル・ブラックは昔とった杵柄、エルヴィス・ナンバーを取り上げました、と言って「Don't Be Cruel」がかかる。これもR&B9位、POP11位と大ヒットです。更に勢いに乗じてメンバーのサックス・プレイヤー、エース・キャノンのソロ・シングルまで出すことになりました。ムーディな「Tuff」がかかり「これ、チークダンスにいいんですよね」と言っておりました。これもR&B3位、POP17位の大ヒットでした。凄いですね、このバンドの勢いは。実はこのエース・キャノン、サン・レコードでビル・ジャスティスのバックをやっていた。ビル・ジャスティスの「Cattywampus」を聴いてみましょう、サックスはエース・キャノン!と言って「Cattywampus」がかかる。エース・キャノンの「Tuff」はこれの焼き直しだったんですね。これはビル・ブラックス・コンボがデビューする前の録音ですからそのサウンドの原点もサン・サウンドだったということです。「Tuff」はスロー・テンポにアレンジしたところがミソでしたね。
1959年から60年にかけてはアメリカン・ポップス史上最多のロック・インスト・バンドが登場した年でビル・ブラックス・コンボはその中でもトップ・クラスのバンドでした。1964年にビートルズUSツアーというのがありましたが、このビル・ブラックス・コンボは出演しています。それもビートルズ・メンバーのたっての希望だったと言われています。因にビル・ブラックがエルヴィスのバックで弾いていたアップライト・ベースがありますが、現在はポール・マッカートニィが持っているそうです。そのベースを弾きながらポールが「Heartbreak Hotel」を嬉しそうに歌っていましたね。
ファンウッド、ハイ、ストンパー・タイムに続いて参入してきたのはサテライト・レコードです。創立者はジム・スチュアート。彼はお姉さんなどの協力で会社を作りました。スタジオは自宅のガレージを改造して最初のレコードは地元のDJのレコードでした。フレッド・ワイラーの「Blue Rose」がかかる。創立者のジム・スチュアートという人は経営のみで音楽的な実務を行っていたのはチップス・モーマンです。彼はサテライト・レコードに来る前はバーネット兄弟のデモ作りを手伝ったり、ジーン・ヴィンセントのツアー・メンバーだったりといろいろな経験をしていました。サテライトの第4弾シングルはそのチップス・モーマンが作曲したベル・トーンズの「Fool In Love」でした。このグループはサン・レコードで吹込みしていたが、サム・フィリップスが発売してくれなかった。そこでサテライトにやってきた若者たちでした。ここでHi Recordと同じようにサテライトも古い映画館を借りてそこを新スタジオにすることになりました。そこで契約したのはまたまた地元のDJでした。地元のDJでも人気のルーファス・トーマスでした。彼は53年にサン・レコードから「Bear Cat」というヒット・シングルを出していました。お分かりの通り「Hound Dog」のアンサー・ソングでしたがこれは当時R&Bチャートで3位になった。これで気を良くしたのか、動物シリーズを続け「Tiger Man」という曲もありました。これは「Mystery Train」でしたね。ルーファス・トーマスはサン・レコードから新しくできたサテライトに移ってきました。そのルーファス・トーマスには17才の娘、カーラがおりまして親子デュエットというのが企画されて新スタジオでの最初のレコーディングが行われました。「'Cause I Love You」という曲で♪バッ、バッ♪というバリトン・サックスを吹いていたのは若き日のブッカー・T・ジョーンズでした。この曲はニュー・オーリンスのジェシー・ヒルの「OOH-POO-PAH-DOO」を下敷きにしていますがこれをアトランティックのジェリー・ウェクスラーが気に入ったんです。でアトコ・レーベルから発売されました。続きまして娘のカーラ・トーマスが自作のソロ・シングル「Gee Whiz」を発表したところ大ヒットとなりました。10代の女の子の気持ちを切々と歌い上げた曲でしたがカーラ・トーマスはまだ在学中だったので学校は大騒ぎになったということです。こちらはアトランティック・レーベルから発売されてR&B5位、POPでも10位にランクされるというサテライト・レコード創設以来初めてのナショナル・ヒットとなりました。 サン・レコード、ファンウッド、ハイに続いてサテライトはメンフィス・サウンドをチャートに送り込んだ4番目の会社ということになったのでした。
地元で最も有名なレコード・ショップに「Home of The Blues Shop」とというお店があります。ジョニー・キャッシュがこの店のことを歌っています、と言って「Home Of The Blues」がかかる。ここもレコード産業に参入してきた。ウィリー・ミッチェルが移籍してレコードを出しました。「That's What Like」がかかる。この録音もHi Recordのスタジオでした。ウィリー・ミッチェルはこの後ハイ・レコードから呼ばれそこの中心人物となっていくことになる。
サテライト・レコードにもホーンをフィーチャーしたThe Royal Spadesというグループがありました。 会社の出資者の息子がメンバーにいたということもあってレコード・デビューに当たってバンド名をMar-Keysという名に改め、デビュー曲は「Last Night」でした。61年夏に発売されR&B2位、POPでも3位にランクされサテライト・レコードとしては「Gee Whiz」を凌ぐ超ビッグ・ヒットとなりました。このヒットを契機にレーベル名をサテライトからスタックスと変えたのでした。創立者のジム・ステュアートの「ST」と姉のエステル・アックストンの「AX」を併せて「STAX」とした訳です。この「Last Night」をSTAXレーベルの第1号として更にスタジオもスタックス・スタジオと名称を変更したのでした。この後、60年代のメンフィス・サウンドをHi RecordとともにこのSTAXが作っていきます。そしてナッシュヴィル詣でのような各アーティストのメンフィス詣でが始まるのですが、その話しは次の機会ということでその後のメンフィス事情、本日はここまでと致します。(ずっとバックで「Lat Night」が流れフェイド・アウトと共にエンディングとなりました。)
1959年前後のインスト・ブームはダンス・ブームという背景がありました。ロック・インストというのは座って聴く音楽ではないんです。踊りながら聴くのが楽しいんです。あるいはカー・ラジオですね。それで爆音で聴く音楽なんです。アメリカン・ポップス伝パート3、今回はナッシュヴィルとニュー・ヨークのその後、フラデルフィア物語、シンシナティのキング・レコード物語、そして最後はメンフィスのその後をお送りしました。大瀧詠一のアメリカン・ポップスの旅、今回はこの辺で・・・



いやー、今回はいろいろなことが重なってタフな作業となってしまいました。年々記憶力が衰えていく中で少しでも内容を覚えておこうと思い英断となった「写経」作業でしたが、かなり「聞き取り」に近い作業となってしまいました。それは各夜の内容が予想に反して自分の関心の深かった分野とは違った意外なテーマだったので要約してまとめることができず、そのまま聞き取った方が得策と思えたからでした。それでも5夜通して振り返ってみるとアメリカン・ポップスの重要な流れが読み取れ非常に勉強になった放送でした。前回同様、各所に小ネタもちりばめられており、聴く者を飽きさせない工夫や演出がなされており放送作家の面目躍如といった構成でした。同時代にいて、こんな為になって面白い放送を聴ける僥倖を噛みしめております。次回も何を措いてもこの放送を捕獲し、時間の許す限り「写経」作業にいそしみたいと心から思っております。私は大瀧さんがラジオで音楽の話題を語ることを一番楽しみに感じている者です。
何度も繰り返しますが、間違い、ミスの多い記述ですのでオリジナル放送に当たる参考資料としてざっと閲覧していただければ幸いです。個々のテーマの感想は追々日記に書き記していこうと思っております。長い文章に付き合っていただきありがとうございました。(2013年4月11日脱稿)

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