NHK FMラジオ番組、大瀧詠一の『アメリカン・ポップス伝 2012 Part 2』の放送メモ・ページです。

放送日:2012年8月27日から30日までと9月7日


注)聞き取り完全版ではありません。あくまで私的な備忘録ですので間違い、聴き違い、省略、文体の不統一等は大目にお見逃しください。尚、気が付いた時点で追記、間違いは改訂していきますので本放送同様「再放送リマスター版」となっております。(2012年11月24日改訂)

Mon. 27 August 2012
【第1夜】前回はエルヴィスが登場してくる1955年までの軌跡を辿ってきましたが、今回は1956年「ハート・ブレイク・ホテル」がリリースされた年にスポットを当ててエルヴィス登場の影響とその波及についての検証です。
1954年10月6日のルイジアナ・ヘイライドでデビューしたエルヴィス。注目したのは一緒に出ていたアーティストたち。例えばマーティ・ロビンス。チャック・ベリーの「Maybeline」を素早くカヴァー。もう一人、ジョニー・ホートンのデビュー曲「First Train Headin' South」(52年)を紹介。53年元旦にハンク・ウィリアムスが亡くなった。ハンクの未亡人はその年の秋にこのジョニー・ホートンと結婚。ジョニーはマーティのプロデューサー、ドン・ホーの元でロックン・ロールをやろうした曲が「Honky Tonk Man」。エルヴィスの音が欲しかったのでベースのビル・ブラックを借りてナッシュヴィルのブラッドリー・スタジオで録音。このスタジオでギターを弾いていたのがグラディ・マーティンという人。でこれ以降ギター・サウンドの重要性が増してくる。
ブラッドリー・スタジオのオーナーはデッカのプロデューサーのオーエン・ブラッドリーという人。その人の元にテキサスはラボック出身の青年からデモ・テープが送られ、それを気に入ってこのスタジオで録音することに。それがバディ・ホリー。(この辺の紹介が実にうまいですね。)彼のデビュー曲「Love Me」がかかる。でもこの曲はヒットしなかった。更に「Baby Let's Play House」がかかる。バディ・ホリーのしゃっくり唱法の原点もエルヴィスだった。
ロスで一番大きなキャピトル・レコードのカントリー部門の担当者はケン・ネルソン。その元にヴァージニア州ノーホークからデモ・テープが送られてくる。その録音はブラッドリー・スタジオで行われる。1956年5月4日、ロックン・ロール史に永遠に残る名曲、ジーン・ヴィンセントの「Be-Bop-a-Lula」が誕生する。これは3部門制覇の大ヒットとなる。フィードバック・エコー等、エンジニアの腕がよかった。♪Well♪は「Good Rockin Tonight」からきているのでは。♪Be-Bop-A-Lulap♪を聴くと♪スースースダラダッタ♪と同じでは。
次はコーラル・レコードの新人トリオの紹介です。エルヴィスの功績は3人いたらロックン・ロールはできるということを広めたこと。ここでジョニー・バーネットとロックン・ロール・トリオの「Oh, Baby, Baby」がかかる。これは「Baby Let's Play House」の下敷きソング。ジョニーとドーシーの兄弟はエルヴィスと故郷が一緒でドーシーはエルヴィスと同じ会社で働いていた。しかしこの曲はヒットせずブラッドリー・スタジオでR&Bのカヴァー曲Tiny Bradshowの「Train Kept A Rollin'」を取り上げる。これを見事なロックン・ロールに仕立て上げたのはギターの名手、グラディ・マーティンで、歌以上にギターのフレーズが注目されるようになる。このグラディ・マーティンのギターが聞き物のジョニー・ホートンの第3弾目のヒット「I'm Coming Home」も紹介される。更に「Train Kept A Rollin'」は10年後くらいにイギリスで再発見されることになるとだけ言っておられました。(ヤードバーズのことでしょうか?)
ジョニー・バーネットもバディ・ホリーもなかなかヒットが出なかったのですが、2度目のナッシュヴィル録音の中に「That'll Be The Day」があった。この日は5曲くらい演奏したが全てオクラ入りとなってしまう。そしてオクラ入りしたことが契約でモメる原因となりいろいろなドラマが生まれることに。
当時デッカ・レコードでNo.1シンガーといったらウェブ・ピアス。出るレコード全て1位になった人でしたがロックン・ロールをやってみようということでやった曲が「Teenage Boogie」という曲。バック・コーラスはジョーダネイヤーズ。この曲を日本でデビュー曲として登場した人がいた。かまやつヒロシさんでしたが、かまやつさんはこの曲を紹介してほしくなかったのでは。当時はトミー・コリンズが大好きでこういうのはやりたくなかったのでは。しかしかまやつさんは日本のロックの始祖の一人であることには間違いない。このデッカ・レコードに10才の女の子が登場することに。「Jambalaya」ブレンダ・リーがかかる。デビューは56年だった。バックにはグラディ・マーティンをはじめとするAチーム、ヒットの背景には同じスタジオ・ミュージシャンが関わっていた。
前回Part 1で「Heartbreak Hotel」のデモ・レコードを歌っていた人を覚えているでしょうか?グレン・リーブスという人でアトランティック(R&B専門レーベル)がカントリー部門を立ち上げその第1号がなんとこのグレン・リーブスだったのでした。更に「Heartbreak Hotel」を作った3人の曲「Rockin Country Style」を録音した。これもヒットには至らず、この3人の作った曲でチャート・インしたのは2曲だけ。やはり「Heartbreak Hotel」はエルヴィスが作った曲だったと言ってよいのでは。
コロムビアのプロデューサー、ドン・ローのところへ兄弟デュオの話しが持ち込まれます。持ってきたのはチェット・アトキンスだった。55年11月のことでブラッドリー・スタジオ前身のキャッスル・スタジオで録音されたもの。兄が18才、弟が16才で兄弟の名前はドン&フィル。(そう、エヴァリー・ブラザーズですね)「Keep A Lovin' Me」コロムビアから出たエヴァリーのデビュー曲です。しかしドン・ローはこの兄弟デュオとは契約しなかった。当時もう一つのデュオ、コリンズ・キッズがいてドン・ローはそっちがあればいいと思ったのではないかと大瀧さんは推測。コリンズ・キッズの「Beetle Bug Bop」が紹介されましたがこれらの映像で見る限りこのデコボコ・コンピ、みた目にはコリンズ・キッズの方が売れるとドン・ローが思ったのも無理はない。エヴァリーはこの後2年間の沈黙の経て大々的に再デビューすることになる。
キャピトルのプロデューサー、ケン・ネルソンへは数々の売り込みがあったのですが、NGになった曲を自分の担当しているアーティストに歌わせようとしてブラッドリー・スタジオに連れてきたのがソニー・ジェイムス。大ヒット曲「Young Love」がかかる。これは3部門制覇の大ヒットで以後アーティストのナッシュヴィル詣でが始まる元となった。
続いて女エルヴィスと言われたワンダ・ジャクソンのデビュー曲「Glad To Let Him Go」がかかる。 エルヴィスと出会ってロンクン・ロール路線に変わる。一時はエルヴィスと恋仲だったと言われている。ここで「I Gotta Know」が紹介され、カントリーと思わせてロックン・ロールという流れは♪はい、それま〜で〜よ♪というような作りという比喩が面白かったです。バックはギターの名手、ジョー・マティス、サイド・ギターは若き日のバック・オーエンスでした。ワンダ・ジャクソンは59年3月に来日していました。日本で一番人気のあった曲は「Fujiyama Mama」でした。これは54年のアニスティーン・アレンのカヴァーといってこちらもかかる。出てくる日本の地名が長崎と広島というのはいかがなものかという気がしないでもないが一番有名な曲。
そしてジェリー・リードもキャピタルから56年にデビューしていた。「When I Found You」がかかる。ギターの名手でもある彼がポップ・チャートに登場するのは12年も後のことでした、と言って有名な「Amos Moses」がかかる。我々が彼のこのヒットを聴いたのは彼のデビューから12年目のことだったのですね、と言って強く影響を受けた日本のギターリスト(多分鈴木茂さん)それに強く作曲に影響を受けた人(大瀧詠一さん)がいたというコメントを付け加えます。
そしてキャピトルにスキーツ・マクドナルドという大御所がいてこの時41才でしたがロックン・ロールに挑戦した「You Oughta See Granma Rock」という曲を紹介します。間奏のかけ声が植木等さんの「今日は死んだ気でいけー!」と同じ。こんな曲を紹介した理由はバックでギターを弾いていたのがエディ・コクランだったから。彼はデビュー前はギターリストだった。
本日の最後はエルヴィスが怒濤の1956年を経て映画『ラブ・ミー・テンダー』を公開した後、休暇をもらって故郷メンフィスのサン・スタジオにふらりとやってくる。そこで演奏されていたのがカール・パーキンスの「Matchbox」でした。カール・パーキンスはピアノを入れたサウンドにしようとジェリー・リー・ルイスのピアノを入れた。そのセッションにエルヴィスはふらりと入っていって結果、このようになったと言ってMillion Dollar Quartetの「Don't Be Cruel」を紹介する。これはその場にいたサム・フィリップスが慌てて録音したもの。これが世にいわれるところのミリオン・ダラー・カルテットでジョニー・キャッシュもその場にいた。ジェリー・リー・ルイスはまだデビュー前でサム・フィリップスにとってはゴールデン・トリオ+1くらいの感覚だったがその後、本当にミリオン・ダラー・カルテットになった。いろいろ語るに多いアルバムですが、その中でチャック・ベリーの「Brown Eyed Handsome Man」をエルヴィスが歌い出し他の全員のコーラスで参加するシーンが面白い。みんな歌が好きなんだなということが分かるセッションとなっている。このミリオン・ダラー・カルテットはその後レコード発売され、さらにミュージカルとなって故郷メンフィスでも公開されたのですが、奇しくもこの9月に日本でも『Million Dollar Quartet』のミュージカルが公開されるのが何かの縁かと解釈している、というコメントで第1回の放送は終了となっています。


Tue. 28 August 2012
【第2夜】今回は1957年にスポットを当てての放送です。ニューメキシコ州はクロービスという町のレコーディング・プロデューサー、ノーマン・ペティの話しから始まりました。この人は地元のラジオ局でアナウンサー、エンジニアをしていて自宅のスタジオで録音した「Mood Indigo」ノーマン・ペティ・トリオが少しヒットし、その印税をスタジオの拡張費に充て本格的なスタジオ経営に乗り出すことになる。そして地元のバンドがこのスタジオに押し掛けることになり、北テキサス大学(北テキサス大学出身の歌手はパット・ブーン、ボビー・フラー、ドン・ヘンリー、ノラ・ジョーンズなどがいた。)の学生バンド、ウィンク・ウエストナーズのデモ・レコードを持ってこのスタジオにやってくることに。このリード・シンガーがロイ・オービソンで「Ooby Doby」の最初の録音がかかる。これをドン・ローの元へ送るが採用されず、ドン・ローはこの曲を自分の担当バンドに歌わせることになった。シド・キングとファイブ・ストリングスというバンドの「Ooby Doby」もかかる。ドン・ローは何故ロイ・オービソンのヴァージョンを採用しなかったか。それはバディ・ホリー同様二人ともメガネをかけていたからではないか。日本でもメガネをかけた捕手、古田選手が最初は敬遠されたように。 ロイは自分の曲を他人に取られたと思ったので再びノーマン・ペティのスタジオに来てティーン・キングスと名前を変えて2度目の「Ooby Doby」の録音をしたがこの曲もヒットはしなかった。
そのオービソンに西テキサス大学のリズム・オーキーズというバンドがどこで録音したか聞いてきたのでノーマン・ペティのスタジオを紹介し、そこで「I'm Sticking With You」(リード・シンガー:ジミー・ボーエン)と「Party Doll」(リード:バディ・ノックス)が録音された。このカップリングを知り合いのDJがニューヨークのルーレット・レコードのジョージ・ゴールドナーというオーナーに紹介し、両面ヒット、特に「Party Doll」はポップ1位の大ヒットとなる。このサウンドの特徴はドラムがスネアではなく段ボールを叩いていた点で、こういうものは自宅録音ならではで大きなスタジオでは採用されなかった。
この後発二人に先きを越されたバディ・ホリーはリード・ギターのソニー・カーティスが脱退してギター一人になっていろいろなスタイルを開発していく。チャック・ベリーの「Brown Eyed Handsome Man」をかけ、歌っている時はサイド、間奏はリード・ギターという奏法になる。そしてボー・ディッドリーの「Bo Diddley」をかけそのリズム・ギターの特徴を示す。
その後デッカ・レコードとの契約で縛られていたバディ・ホリーに助け舟を出したのがデッカの兄弟会社のコーラル・レコードのボブ・シールという社長で、個人名で出した契約なのでグループで出せばオーケーではというアイデアを出しクリケッツという名義で「That'll Be The Day」が生まれた。災い転じて福となす、ということでこの曲は大ヒットとなりノーマン・ペティ・スタジオが以後注目されるようになる。デッカは当然クレームをつけてきて以前オクラ入りした個人名義ヴァージョンを出したがヒットせず、クリケッツというバンド名が契約の問題でできた、というのががこの日のハイライトかもしれませんね。そして珍しい音源ボブ・シール(ブランズウィックの社長でもあった)に感謝の意味で贈った「That'll Be The Day」の替え歌が紹介されこの音源にはびっくりしました。この「That'll Be The Day」のタイトルはジョン・フォード監督の『捜索者(Searchers)』という映画からとったということはよく知られていますが、ドラマーのジェリー・アリスンが観ていて主演のジョン・ウェインのセリフを聞いてかっこいい!と思って作った曲。このエピソードからイギリスのサーチャーズというグループの名前が付いた。でクリケッツというバンド名を決めたのもジェリー・アリスンのアイデアだった。彼はニューヨークのスパイダーズというグループが好きだったので昆虫の名前にしようと決め、昆虫図鑑をAから順番にAーアリ(Ants)、B-カブトムシ(Beetle)、C-コオロギ(Crickets)等があってラボックという土地は一面の野原でコオロギが沢山生息していたのでクリケッツになった、カブトムシが多い地方だったらビートルズになっていたかもという話しが面白かったです。
ボブ・シールはバディ・ホリーとクリケッツの「二毛作システム」というのを考え出すことになる。ソロ名義第1弾が「Words of Love」がかかる。バディ・ホリーはこのような3コードを使ってポップな曲を作る天才という指摘もありました。しかしこの曲はヒットしなかったのですが7年後にビートルズがカヴァーして世界的に有名な曲になる。そしてクリケッツ名義の第2弾「Oh Boy」ですがこの曲はソニー・ウェストの「All My Love」を変えたもの。これはヒットして次からは出るもの全てチャートイン。この曲のB面がボディッドリー・リズムを使った「Not Fade Away」でドラムが段ボールを使用している。後にストーンズがカヴァーしてミック・ジャガーに合った曲のように思われていますが、オリジナルはバディ・ホリーだった。そして「Oh Boy」がチャートインされる前にバディ・ホリー名義で「Peggy Sue」がリリースされ大ヒットとなる。この曲の特徴のドラミングはジェイ・ピー・モーガンの「Dawn」からヒントを得ているとドラマーのジェリー・アリスンが言っているそうです。ジェリー・アリスンという人は本当にアイデア・マンですね。ネタというのは至るところに埋まっている。
ノーマン・ペティのスタジオで唯一ヒットのなかったロイ・オービソンでしたが、ジョニー・キャッシュからサム・フィリップスを紹介されサン・レコードと契約をし、そこで本当にしぶといロイの真骨頂で3度目の「Ooby Doby」を吹込むことに。この執念の甲斐あって59位にランクインした。「よかったですね!」という大瀧さんの声がよかった!でもこの後が全く続かずロイ・オービソンがポップ・チャートに登場するのはこれから4年後になる。
サン・レコードはエルヴィス、カール・パーキンス、ジョニー・キャッシュと安定的なヒットを出してしたのですが、頼みのロイ・オービソンが続かず困っていたところへ救世主が現れた。それがジェリー・リー・ルイスでした。そのデビュー曲「Crazy Arm」がかかる。この曲はヒットはしなかったがサン・レコードにとっては貴重なピアノ・プレイヤーだったのでセッション・マンとして参加しロイ・ホールから「Whole Lotta Shakin' Goin' On」を教わったのですが、これをジェリー・リーは自分のスタイルでカヴァー、これがバカアタリとなりポップ3位、カントリーとR&Bで1位となる3部門制覇となってしまうのです。(サン・レコードでは2曲目の3部門制覇となった。)サン・レコードにはよくよく才能が集まってくる所で、偶然の出会いが時代を作っていく、予測不能のところがキーポイントとおっしゃっていました。早速映画『ジャンボリー』(DJディック・クラーク中心の映画)の主題歌にジェリー・リー・ルイスが採用される。作者は「冷たくしないで」のオーティス・ブラックウェルで急ぎの作品でしたが正にジェリー・リーのために作られたピッタリの代表作となる。それが「Great Balls Of Fire」でした。大瀧さんの表現を借りると「1秒として無駄のない完成品ですね。素晴らしいです!」ということでした。これも3部門制覇を成し遂げ人気者になった。1957年はジェリー・リー・ルイスにとってはゴールデン・イヤーとなった。
サン・レコードには他にもビル・ジャスティスというサックス・プレイヤーがいて彼が作ったインスト曲が大ヒットとなる、と言って「Raunchy」が紹介される。これがまた3部門制覇となる。ギターのフレーズに特徴があり、この曲が引き金となりインスト・ブームとなる。これをポール・マッカートニィがジョージと交わす会話のエピソードを引用していかに有名だったかということも付け加えていました。
そしてこの日の最後もまたまたエルヴィスの登場です。1年間ハリウッド住まいでラジオ・レコーダーズというスタジオがほとんどでした。 57年のエルヴィスのヒット曲を立て続けに紹介してエンディングにしていました。
「Love Me」「Too Much」「All Shook Up」「Teddy Bear」「Jailhouse Rock」「Don't」「Wear My Ring Around Your Neck」「Hard Headed Woman」
ということで1957年の動きを分かりやすく紹介して本当に為になりました。


Wed. 29 August 2012
【第3夜】さてその第3夜の舞台はルイジアナ州はシュリーブポート、54年10月にエルヴィスがデビューを飾ったルイジアナ・ヘイライド 1956年12月16日の最後のライブの模様から紹介されました。もう歓声というよりは悲鳴に近いファンの声が凄かったです。この町にはいくつかラジオ局があって一番有名なのがこのヘイライドを放送していたKWKHでこのラジオ局は深夜低料金でスタジオを開放していた。そこにデモを作成する若者がいてその勤め先であるレコード店の店長がシカゴのチェス・レコードにこの音源を送ってレコード・デビューとなる。その青年の名はデイル・ホーキンスで最初のシングル盤「See You Soon Baboon」がかかる。この曲はデイルの友人、ボビー・チャールス版の「See You Later Alligator」が元になっていた。元々はファッツ・ドミノに書いた曲でボビー・チャールスをチェス・レコードに紹介したのはロスのレコード店の店主だった。この頃はラジオ局のDJやレコード店のオーナーが大活躍をした時代でもあった。デイル・ホーキンスは最初の曲が不発に終わったので以前作っていた曲を第2弾としてデモを作り、再びKWKHのスタジオで録音したのが「Susie Q」でした。印象的なギター・ソロを弾いていたのはジェームス・バートンでこれは57年5月に登場しR&Bで7位にランクされデイル・ホーキンスは一躍R&B界の人気者となる。またギターのジェイムス・バートンの存在がより大きくなっていった。そのバートンのいとこでマイロン・ハンフリーズのバックでジェームス・バートンのギターが炸裂していた。「Worried 'Bout You Baby」がかかりDC5の「Thinking of Your Baby」はこの曲かもと言っていました。
ルイジアナ・ヘイライドの動員をキープするために第2のエルヴィスをということで白羽の矢が立ったのが ボブ・ルーマンという人でそのバック・バンド(シャドウズ)のメンバーの中にジェームス・バートンがいた。「All Night Long」がかかりその後、映画出演の話しが持ちかけられB級映画の『カーニバル・ロック』に出演することに。西海岸のB級映画というとロジャー・コーマンで彼のプロデュースで作られた映画で3曲ばかり歌うことに。この「This is the Night」というYouTubeのジェームス・バートンのギターがかっこいい! ボブ・ルーマンの曲はヒットしなかったがこの映画出演をきっかけにロスにジャンジャン、ロックン・ロールのミュージシャンが集まってくることに。
話しは変わって57年4月、テレビのホームドラマで人気のあった16才の青年がレコード・デビューする。彼は12才からテレビに出ていて全米中が彼の成長過程を知っていた。お父さんは戦前有名な歌手オジー・ネルソン、お母さんはそのバンドの歌手で日本でも公開された『陽気なネルソン』の主人公、リッキー・ネルソンの登場です。「I'm Walking」がかかりバックのギターはジャズで有名なバーニー・ケッセルが弾いていて最初のシングルから両面ヒットとなった。リッキー・ネルソンは高校生だったのですが、ここから本格的なティーンエイジ・アイドルの時代に。それとともにこの57年頃から音楽がラジオからテレビを有効に活用し出すようになる。 第3弾「Bee Bap Baby」も両面ヒットとなる。ネルソンの初期のシングルはほとんどが両面ヒット、録音はボブ・ルーマンと同じマスター・サウンドのスタジオを使用していた。そこでリッキーはボブ・ルーマンのバンドのメンバー(ジェームス・バートン)を顔役のパパに頼んでバックで演奏してもらうことになり第4弾シングルにジェームス・バートンとジェームス・カークランドが参加することに。バック・ギターがジェームス・バートンの「Stood Up」がかかり、コーラスはジョーダネイヤーズということでした。この頃、エルヴィスは1年間ハリウッドにいてジョーダネイヤーズもロスに来ていたので使えたということでした。この曲もヒットし、バンドのメンバーもジェームス・バートン、ジェームス・カークランド、そしてドラムのリッチー・フロストと固定メンバーとなる。
その後、デイル・ホーキンスはジェームス・バートンがいなくなってから、ギターに知り合いだったジョー・オズボーンに声をかけドラムにエルヴィスのところにいたD.J.フォンタナを招き入れ「La-Do-Dada」を録音することに。続いてデイル・ホーキンスのセッションにはテレキャスの使い手、ロイ・ブキャナンが登場することに。「My Baby」が紹介される。そしてボブ・ルーマンもこのロイ・ブキャナン、ジョー・オズボーンを使うことになり、ギターの名手、ブキャナンが同じギター出身のジョー・オズボーンをベースの名手に仕立てたということになる。そしてこの二人を配して「Boon Boon Boon Yippy Yi Ya」という曲を録音する。つまりボブ・ルーマンの功績はジェームス・バートンとジョー・オズボーンをロスに移動させたということになるのでは。
ここでまたリッキー坊やが登場し、ベースのジョー・オズボーンを引っ張ってきてギター、ジェームス・バートン、ベース、ジョー・オズボーンというゴールデン・コンビが完成した。「Milk Cow Blues」がかかる。
ネルソンが所属していたインペリアル・レコードはルー・チャッドという社長が自ら制作するカントリーとR&R部門を持っていた。それと制作を外部で行っていたR&B部門がニューオーリンズにあった。その看板スターはファッツ・ドミノでデビューは1950年の「Fat Man」。この後、パット・ブーンがファッツの曲「Ain't That a Shame」をポップ・チャートで1位にしてファッツもポップ・チャートの常連となる。これらは全てロサンジェルスのレコード会社、インペリアルから出ていた。
その他にロスにはR&B専門のレコード会社がいつくかあった。その内の一つにスペシャルティ・レコードというのがあってそこのスターはリトル・リチャードでスタジオの名はコジモ・スタジオ。オーナーはコジモ・マタッサ。ニューオーリンズ・サウンドの全てはこのスタジオで作られていた。サウンドの特徴はドラム・サウンドにありファッツの曲をはじめニューオーリンズ系の曲のほとんどはアール・パーマーが叩いていた。特にリトル・リチャードとのコンビは強力で「Long Tall Sally」がかかる。
この頃、ロックン・ロール映画がいろいろ作られるようになり、『女はそれを我慢できない(Girl Can't Help It)』の主題歌「The Girl Can't Help It 」をリトル・リチャードが歌うことに。コメディ映画でしたが音楽シーンがふんだんに盛り込まれていて有名なシンガー、グループが登場する中で、無名のシンガーがテレビで歌っているシーンで登場してくる。それがエディ・コクランで「Twenty Flight Rock」のテレビ版が紹介される。このエディ・コクランの起用を大瀧さんはエルヴィスを出演させたかったのだがパーカー大佐が法外のギャラをふっかけたのでエルヴィスの代わりにエディ・コクランが採用されたのでは、ということでした。その証拠がこのエルヴィスの 「Elvis Presley Blue Suede Shoes Color」というクリップです。そしてエルヴィスの生のステージを観ることのできない人たちは映画『Love Me Tender』で歌うエルヴィスに期待した。ところが歌うシーンはあまりなくおまけに最後は死んでしまったのでファンはがっかりしたのでは。そこでこの『女はそれを我慢できない』に出てきたジーン・ビンセントを観た世界中の若者は彼の演奏シーンにしびれ、さらに途中で出てきたエディ・コクラン、あれは誰だ、かっこいいと思ったのでは。イギリスの16才の少年、ジョン・レノンもジーン・ビンセントにショックを受けた一人で15才のポールもまたエディ・コクランの曲をやっていて一緒にグループを作ることになったと物の本には書いてあるそうです。そんなイギリスでジーン・ビンセントとエディ・コクランの人気が異常に高いのはこの映画の影響ではとおっしゃっていました。つまりビートルズを作ったのは『女はそれを我慢できない』という映画にあったのではと推論されていました。
エディ・コクランの「Twenty Flight Rock」はヒットしなかったがその3ヶ月後に出た「Sittin' In the Balcony」はかなりのヒットになった。ここで有名なフィード・バックエコーが最後に効果的に使われていた。そしてエディ・コクランというとこの曲という「Summertime Blues」が紹介されドラムのアール・パーマーの存在が大きいと指摘されていました。更にもう1曲アール・パーマーのドラムで「C'mon Everybody」も紹介される。この低音を響かせたサウンドは新しいロックン・ロール・サウンドとなっていく。このエコーはゴールド・スター・スタジオのエコーで後にフィル・スペクターが有名にしたスペクター・サウンドのエコーはエディ・コクランが先きに使用していた。
同じく58年に登場したリッチー・バレンスのドラムもアール・パーマーでしたと言って「La Bamba」がかかりました。ルネ・ホールというギターリストが弾く6弦ベースが印象的でギターにはキャロル・ケイも参加していた。この「La Bamba」と同じミュージシャンで作られたのがスゥインギング・ブルージーンズで有名なチャン・ロメロの「Hippy Hippy Shake」で、なんとキャロル・ケイがイントロの6弦ベースを弾いたビーチ・ボーイズの「Dance Dance Dance」も紹介されていました。
最後はカントリー・シンガー、トミー・サンドがロックン・ロール路線に転向したナンバー「The Worrtin' Kind」がかかりやっとドラマーのハル・ブレーンがここで紹介される。
ということで58年にはロサンジェルスにもナッシュヴィルのAチームにも対抗できるミュージシャンが集まってきたということで締め括っていました。


Thu. 30 August 2012
【第4夜】ラスマイの第4夜はインスト・ブームの話しから始まりました。先ずアーニー・フリーマンの「Raunchy」がかかりこのインスト・カヴァー曲がオリジナルのビル・ジャスティスとともに3部門制覇という珍しい例ということでした。このドラムはアール・パーマーでそのパーマーが叩いている曲、アーニー・フィールドの「In The Mood」も紹介されました。リッチー・バレンスと同じミュージシャンなので同じサウンドでした。ウエスト・コースト・ロックのドラム・サウンドはニューオーリンズのアール・パーマーが作っていた。この「In The Mood」が録音されたのはゴールドスター・スタジオで同じスタジオで録音されたチャンプスの「Tequila」が紹介される。これは最初B面だったがあれよあれよという間にPOP No.1、R&B No.1になった。これでインスト・ブームに火がついて多くのインスト曲がこの後出てくることになる。
「Tequila」の1ヶ月後にチャートに登場したのがデュアン・エディの「Movin' N Groovin」でした。フェニックスという町にもサム・フィリップス、ノーマン・ペティと並んで有名なプロデューサーがいた。この町でDJをやっていたリー・ヘイゼルウッドという人で録音の手伝いをしていたデュアン・エディに低音源をフィーチャーする奏法を勧めたのもリー・ヘイゼルウッドだった。この曲は当初ヒットしなかったが第2弾「Rebel-Rouser」が大ヒットとなった。このエコーはドラムカン・エコーであるということは82年に放送した『笛吹銅子ショー』で話したとおっしゃっていましたが、これ以降デュアン・エディはギター・インストの王者となってギャンギャンヒットを出すことに。このトワンギー・ギターのバック・バンドはレベルズと名乗りコーラスとサックスはゴールド・スターでダビングされたもの。デュアン・エディにはもう一人レスター・シルというプロデューサーがいてバックのシャープスをプロデュースしていた。ここでサックスを吹いていた人はジル・バーナルという人でしたが、他にスティーブ・ダグラス、ラリー・ネクテル、ジム・ホーン等後のウェスト・コースト・サウンドの中核となるミュージシャンも集まってくる。そのレスター・シルが共同経営者となっていたスパーク・レーベルの中心人物はジェリー・リーバーとマイク・ストラーのコンピでした。
ここでロックン・ロール時代の前のウェストコースト、1950年代の前半に戻っての解説になりました。
50年代の西海岸ではウエストコースト・ジャズというものが流行っていた。51年にはコンテンポラリー・レコードにはアート・ペッパー、シェリー・マン、バーニー・ケッセルがいました。52年にはパシフィック・ジャズ・レコードが設立されジェリー・マリガン、チェット・ベイカー、ポール・デズモンドがいたが徐々にこういったミュージシャンの中からロックンロールのセッションに参加する人がでてくることに。リッキー・ネルソンの時に話したバーニー・ケッセルは早目に参加してきた人でした。ジャズ・ドラマーのジョニー・オーティスもR&Bの録音に参加するようになる。この人がドラムを叩いていたのがビッグ・ママ・ソートンの「Hound Dog」でした。犬の鳴き声が入っていて擬音を多用するのもリーバー=ストラーの特徴で録音されたのはエルヴィスも使っていたラジオレコーダーズのスタジオだった。
この作者リーバー=ストラーの出身は東海岸で50年に出会いその頃からR&Bのアーティストに曲を提供していた。そしてこの「Hound Dog」がNo.1になったので大金が入ってくると思ったのですが一銭も入ってこなかった。そこで自分たちのスパーク・レコードを作って宣伝担当でレスター・シルを引き入れた。3人で54年3月から全22枚のシングルを発売したが売れなかった。地元のロビンズというグループが中心のレーベルだった。そのリーバー=ストラーがロビンズに書いた最初の作品「Riot In Cell Brock #9」がかかる。実際にあった事件を題材にした曲でしたが、次の曲はエルヴィスがカヴァーして有名になった曲、「Love Me」でした。これはWilly & Ruthという男女デュオのものでしたがエルヴィスのものとはかなり違っていました。そしてスパーク・レコードの最後のシングルとなったのはロビンズの「Smokey Joe's Cafe」でした。スパーク・レコードは1年半でたたんでしまったがアトランティック・レコードのアーネット・アーティガンの兄でネスヒ・アーティガンという人が登場しアトランティックから「Smokey Joe's Cafe」を出すためにレスター・シルを含めた3人をリクルートする。そしてアトランティックの子会社、アトコから10枚目のシングルとして発売された。
アーメットの兄のネスヒ・アーティガンという人はドリフターズの担当プロデューサーでリーバー=ストラーにドリフターズに曲を書いてくれと依頼した。その曲が「Ruby Baby」だった。これはすぐにリリースされなかったが、ネスヒは早くからリーバー=ストラーの作家としての力量を評価していた。ニューヨークのアトランティックと契約したロビンズはウェストコーストから来た人たちという意味でコースターズと改名された。そのコースターズとしてのデビュー曲は56年3月に発表された 「Down in Mexco」でした。リーバー=ストラーの異国趣味が出ている曲で順調なスタートを切った。その同時期にドリフタースの「Ruby Baby」も発売され両方ともヒットしてリーバー=ストラーは嬉しかったのでは。そしてこの年の5月にはエルヴィスの「Heartbreak Hotel」がチャートの上にいて後に自分たちの作った「Hound Dog」を大ヒットさせるとは夢にも思っていなかった。コースターズはここから大ヒットを連発し、次の2曲が両面No.1ヒットとなる。「Young Blood」とB面の「Searchin'」でした。このノベルティ・タイプの曲を日本で探すとクレイジー・キャッツの「こりゃしゃくだった」がそうで、青島幸男=萩原哲晶は日本のリーバー=ストラーだったと言えるのではというのが大瀧さんの説。このコースターズの3曲、実はLAのマスター・サウンド・スタジオで録音しているので音質がロビンズ時代と同じ。ニューヨーク録音ではなかった。何故か?カギはエルヴィスだった。エルヴィスが1年間ハリウッド暮らしだったということは何度も言っていますが、この時期にパーカー大佐はアトランティックと契約したリーバー=ストラーをエルヴィスのスタッフに加えたかったので立て続けに映画の主題歌を書くよう依頼し、リーバー=ストラーは結局ニューヨークへ行く時間も余裕もなかった。それでこれまでのコースターズの曲はLA録音となったということでした。
そのリーバー=ストラーがエルヴィスの映画のために書いた最初の曲は「Hot Dog」でした。タイトルといい、なんとも皮肉の効いた曲でした。その次3本目の主題歌は「Jailhouse Rock」でした。この曲にはマイク・ストラーがピアノを弾くシーンが何度か出てくる。これにはロビンズの「第九監房の反乱(Riot In Cell Brock #9)」のストーリーが生かされている。そして4本目の映画は『闇に響く声(King Creole)』でこの中では「第九監房の反乱」のサウンド・パターンが使われていました。「Trouble」のイントロと比較してキーまで同じと解説していました。
57年にパーカー大佐から解放されたリーバー=ストラーはアトランティックのアーメット・アーティガンの元へ行き、58年3月コースターズのニューヨーク録音が始まることになる。そしてこの「Yakety Yak」はR&B、POPチャートでもNo.1となりリーバー=ストラーはコースターズに専念できるようになった。サックスはキング・カーティス、ここからニューヨークのコースターズ・サウンドが始まることになる。 「Charlie Brown」「Along Came Jones」「Poison Ivy」が立て続けにかかる。ニューヨークのトム・ダウドの音は8チャンネル・レコーダーを使ってクリアになっている。
ここからはニューヨークの話題となります。1952年にニューヨークで出来たケーデンス・レコードからのヒット曲にコーデッツの「Mr. Sandman」やアンディ・ウィリアムスの「Butterfly」などがありましたが、何と言っても一番有名なのはエヴァリー・ブラザーズですね。その再起をかけた曲はブライアント夫妻の「Bye Bye Love」でしたがカントリー界の大御所、ウェブ・ピアスが先きにリリースしヒットしてしまう。そこでエヴァリーは不安を抱えたままの録音となるのですが、それは全くの杞憂に終わり「Bye Bye Love」はメガヒットとなる。この曲のイントロのギターの音には仕掛けがあって、一人はノーマル・チューニングなのですがもう一人はボー・デッドリーのオープン・チューニングで弾いている。続いて2枚目のシングル「Wake Up Little Susie」は「Bye Bye Love」を凌ぐ大ヒットとなりPOP, COUNTRY, R&Bチャート全て1位という偉業を成し遂げる。これはエルヴィス以外誰も成し遂げなかったものでここでブライアント夫妻とエヴァリーの強力なコンビか結成されることになりエヴァリーは次々とヒットを飛ばしていくことに。3枚目のシングル盤はR&Bのカヴァーに挑戦することになる。選ばれた曲はリトル・リチャードの「Keep A Knockin'」でした。この曲をエヴァリーは独特の調理法でカヴァーした。エヴァリーの「Keep A Knockin'」です。この第3の道があるということは誰も気付いていなかった。つまりシャウトか気の抜けた歌い方とかその2つしかカヴァーのパターンがなかったのをエヴァリーはコーラスでR&Bの雰囲気を出した。後にビートルズはハーモニーでシャウトするということになるのですが、原点はこのエヴァリーにあったというわけです。そして第4弾シングルはロック史のみならずアメリカン・ポップスの永遠の名曲となった、イントロのギターはチェット・アトキンスと言って「All I Have To Do Is Dream」がかかりました。 これも3部門制覇、それも全部1位というのはアメリカン・ポップス史上においてエルヴィスの5曲とエヴァリーの2曲の7曲しかない快挙でした。まさに56,57,58年がロックン・ロールの時代だったと言えるのではという結びで終わっていました。


Fri. 7 September 2012
【第5夜】いよいよ最終日。フィリピン沖の地震情報で流れてしまった本放送を再放送の時間で聴くことができやっと落ち着くことができました。先ずは引き続きニューヨークの話しから。エルヴィスが「ハートブレイク・ホテル」でデビューした56年の同じ時期にニューヨークのデッカ・レコードからデビューしたのがボビー・ダーリンでした。「Silly Willie」がかかる。作詞がドン・カーシュナー、作曲がボビー自身という歌でしたがボビー・ダーリンは最初フォーク、カリプソなどを歌っていた。次にコニー・フランシスと知り合いカーシュナー=ダーリンのコンビが彼女に「My First Real Love」という曲を贈った。このコーラスはボビー・ダーリンが一人で歌っていた。その後アトランティックから曲を出すことになるのですが、何でも歌えて器用な人なのでどの路線でいくか考え最初はエルヴィス路線でいくことになり「I Found a Million Dollar Baby」をナッシュヴィルのブラッドリー・スタジオで吹き込まれた。このジャズ路線は後にボビー・ダーリンの特徴となるのですが、ジャズ路線にいくのか、ロックにいくのかアトランティック・レーベル内部で議論が分かれるところでしたが、天の声でアーメット・アーティガンの決めたロック路線になった。そこでロックン・ローラー、ボビー・ダーリンを誕生させた、と言って「Splish Splash」がかかる。これはロックン・ロールのレコードとして初めてステレオで録音されたものでアトランティックに入らなかったエルヴィスの代わりがこのボビー・ダーリンだった。ニューヨーク初の白人ロックン・ローラーとなりロックン・ローラーを決定づける曲となった「Queen Of The Hop」が紹介され、その際ギターリストはアル・カイオラという名前が飛び出す。ここが先ずこの日のハイライトだと思います。そのアル・カイオラはバディ・ホリーの名作「Rave On」のギターも弾いていた。ニューヨークにおける最初のギターリストがアル・カイオラでした。
58年にして初めてニューヨーク産のロックン・ロールが登場したが、それまでのニューヨークはドゥ・ワップ・サウンド全盛でした。54年のクリューカッツの「Sh-Boom」がその代表格で1位になった。ここまで大ヒットすると業界は無視できず、続々とR&Bのカヴァー曲が登場することになる。白人シンガー、ニール・セダカ(トーケンズ)も「While I Dream」でデビューしてくる。こうしたドゥ・ワップの流れに新星フランキー・ライモン&ティーンエイジャーズが現れ「Why Do Fools Fall in Love」が大ヒットとなる。「ハートブレイク・ホテル」が流行っていた56年1月のことでこの時フランキー・ライモンは13才という正にティーンエイジャーだった。このドゥ・ワップ人気は有名DJのアラン・フリードなどの力が大きい。このような中にラテン・フレーバーを入れた曲が登場することになる。ターバンズの「When You Dance」でこれも大ヒットとなりこのタイプのサウンドが流行し始める。56年には後のフォーシーズンズに当たるフォー・ラヴァーズの「You're The Apple Of My Eye」がチャートに上がってくる。さらに同じタイプの曲でグラジオラスの「Little Darlin'」もヒットする。この曲をカナダ出身のダイヤモンズがカヴァーすることになる。このラインを受け継いで同じくカナダ出身のポール・アンカが自作の有名曲「Diana」で57年7月デビューすることに。この時ポール・アンカ14才でした。1年前にデビューしたエルヴィスは21才ということで業界は驚いたばかりだったがフランキー・ライモン、13才、ポール・アンカ、14才とティーンエイジャーの時代が始まることに。
ポール・アンカもこの時期に出てきてそのサウンドを作ったのはドン・コスタでした。そのバックのサウンドで♪ダンダカラッタ、ダラダラ♪とリズムを刻んでいた打楽器に代わってギターがそれをやるようになった。そのギターリストがアル・カイオラだったと指摘していました。ウーン、アル・カイオラ恐るべし!これをアル・カイオラは他のセッションでもジャンジャン弾いた、と言って先ずボビー・ダーリンの「Dream Lover」に始まってニール・セダカ「Oh! Carol」、キャロル・キング「Under The Stars」、ジャッキー・ウィルソン「Lonely Teardrops」、クレスツ「The Angels Listened」、ジミー・ジョーンズ「Good Timin'」、ブライアン・ハイランド「Four Little Heels」と立て続けに紹介して極めつけとしてビリー・ボーン楽団の大ヒット曲「峠の幌馬車(Wheels)」を紹介してこのオールディーズに特有のギター・フレーズを紹介していました。これらの共通のギター・フレーズは全てアル・カイオラだったのですね。このギター・サウンドが60年代ポップスということになり原点は「ダイアナ」でアレンジ=ドン・コスタで演奏=アル・カイオラだったということでした。それにしてもこのフレーズを弾いていたのがアル・カイオラという人だったということを知っただけでも十分為になる放送でした。
でここまでくるとさしものロックン・ローラーもこの流れに抵抗できなくなりかつてのロックン・ローラーがポップスに変わっていくサウンドを紹介していました。まずジョニー・バーネットの「Dreamin'」がかかり続いてジーン・ヴィンセントの「Mister Loneliness」、エディ・コクランの「Cherished Memories」(邦題:コクランのズンタタッタ)、そしてロイド・プライスまでもニュー・オーリンズの匂いは残っていたがドン・コスタのアレンジで「I'm Gonna Get Married」を歌うことになった。そしてこの項目の最後にポール・アンカの曲をバディ・ホリーがカヴァーした「It Doesn't Matter Anymore」をかけてバディ・ホリーの変化についても言及されていました。つまりバディ・ホリーが死んでロックン・ロールが死んだとよく言われるがジーン・ヴィンセントやエディ・コクランのように如実な変化はないもののの既にニュー・ヨークで録音されたこの曲に路線変更の兆しがあったと指摘されていました。
1956年に始まったロックン・ロール時代は59年に幕を閉じたと言ってその原因はエルヴィスの徴兵が一番大きかったと考えていると述べていました。エルヴィスは1957年12月20日に徴兵命令を受けて翌58年3月に入隊した。あんなにブレイクしたのにエルヴィスの実働期間はたったの2年間で58年から丸2年、キング・エルヴィスが音楽界に不在となりぽっかりと穴があいた状態となった。その証拠にそれまで続々と出ていた3部門ヒットが突然に途絶え、59年にはゼロになる。エルヴィスの入隊とポップス・シンガーが大挙して輩出する時期が58年に重なっていたことは無関係ではないと推論されていました。うーん、深い!
ここでいよいよパット・ブーンの登場という意外な紹介となりました。パット・ブーンという人はエルヴィスより1年前にデビューした人なので先きに紹介すべきだったのですが、ここまで"とっておいた"、と強調されておられました。うーん、憎いですね(笑)。そして53年5月の最初の録音曲「Until You Tell Me So」がかかりパット・ブーンの説明に入ります。パット・ブーンは2才の時にナッシュヴィルに移ってきてエルヴィスと同じテネシー州育ちで54年にギャラティンというところにあったドット・レコードと契約し、その社長にデビュー曲としてオーティス・ウィリアムス&チャームズの「Two Hearts,Two Kisses」を電話で聞かされそれを一晩で覚えてシカゴへ行って吹き込んだものがこちらでした。パットは必死にR&Bの雰囲気を出そうと歌ったもので幸い16位とヒットしエルヴィスより先きにチャートインしていた。そしてPOPチャートで1位となった「Aint That A Shame」が出るのです。これはR&Bチャートでも14位と当時のR&Bファンからも受け入れられたということでした。一般にはパット・ブーンというとクルーナーのイメージが強く55年当時のロックン・ローラーとしての受け入れられ方は信じられないのですが、比べる相手がペリー・コモやエディ・フィッシャーといったソフトな歌手だったので彼らに比べれば十二分にワイルドなロックン・ローラーだったので若者はパット・ブーンに夢中になったと解説していました。そこで次の曲にリトル・リチャードのアップ・テンポな曲「Tutti Frutti」を選んだですが折しもエルヴィスの「Heartbreak Hotel」が出ていたので12位止まりとなってしまいました。既に時代はエルヴィスの時代になっていたのですね。
ここでちょっとした時代のいたずらがあったと言ってあるエピソードを紹介していました。あるDJが「Tutti Frutti」のB面をかけ続け、そのB面があれよあれよという間にチャート4位になり、その曲が「I'll Be Home」というフラミンゴスのカヴァー・バラードでパットのその後の路線を示した曲でもあったのです。ことのいきさつはDJがAB面を逆にしたということで火がついたということでした。これは結果的にエルヴィスの登場がバットを本来のクルーナー歌手に戻したということでもあるとおっしゃっていました。(これも初めて聞くご高説!)
ドットの社長はこの流れを読めず更にリトル・リチャードのカヴァーをパットに歌わせたがヒットせず、すでにパットのロックン・ローラーとしての役割は終わっていたということでした。55年はまさに幕末、56年は明治維新という大瀧さん独特の比喩を使って解説していました。この後エルヴィスVSパットという構図が生まれるがパットはエルヴィスの対抗役ではなくむしろ先導役として機能したとも語っていました。そしてパットはいよいよ映画初出演ということになり彼の代表曲でもある「砂に書いたラヴ・レター(Love Letters In The Sand)」がヒットしPOP1位、R&Bでも12位でR&Bファンもクルーナーとしてのパットを受け入れたということになるとおっしゃっていました。このパット・ブーンのサウンドをデビューの頃から支えていた人がいたと言ってビリー・ボーンを紹介していました。「Sail Along Silvery Moon」がかかる。ポール・アンカの影にはドン・コスタがいたようにパット・ブーンにはビリー・ボーンがいたということでした。
そしていよいよエピローグが迫ってきてバックにエディ・コクランの「Three Stars」を流しながらロックン・ロールの終焉をこう説明していました。58年、DJのアラン・フリードが暴動を先導したということで逮捕され、翌59年ペイオラ・スキャンダルで失脚しロックン・ロールを支えてきたDJの時代が終わり、59年2月3日にバディ・ホリーが飛行機事故で亡くなる。その死を悼んでエディ・コクランが歌ったものが「Three Stars」でした。でもそのコクランも60年4月17日ジーン・ヴィンセントとの英国ツアー中、自動車事故で亡くなる。それにしてもこの二人が自動車に乗っていたというのは『女はそれを我慢できない』を思い起こされ因縁を感じるとおっしゃっていました。
エルヴィスは入隊直後に休暇でもらった2日間にロックン・ロール・ファンに最後のメッセージを届けようと汗だくで歌いました、と言って「A Big Hunk O' Love」「I Need Your Love Tonight」をかけナッシュヴィルに戻ってブラッドリー・スタジオのAチームと一緒の演奏でしたと解説していました。続いて「I Got Stung」がかかりスタジオは「ハートブレイク」のRCAではなくエヴァリーが使っていたBスタの方ということでした。2年後にここに帰ってきてロックン・ロール史上初となるダブル・ドラムで録音され60年代のエルヴィス・サウンドがここで始まっていたと結論づけていました。そして最後にかかった曲は「A Fool Such As I」で5夜に亘るアメリカン・ポップス伝はお開きとなっていました。
そして最後の結びの言葉として大変示唆的な一言をおっしゃっていました。<59年にロックン・ロール時代は終焉を迎えましたがエルヴィスは60年に『Elvis Is Back!』で復活するんです。キングだけは一旦隠れただけで不死身だったのです。>「A Fool Such As I」の後半がフェイド・インされ大瀧さんのテーマ曲がかかり長かった放送に終止符が打たれました。

ロックン・ロールの隆盛から衰退までを辿ったこのパート2の番組は多くの音楽ファンに聴いてもらいたいポップス講座であるばかりでなく、一流のラジオ・ドラマでした。今回特に感じたことは大瀧さんは放送作家を兼ね備えたDJ、更には語り部として唯一無二の物事研究家としての魅力を十二分に発揮された素晴らしい番組だったという感想でこのメモも閉じることにします。拙いメモにお付き合いいただき感謝しております。時間のない中、速攻でまとめたレポートでしたが、こんなに楽しい作業もありませんでした。大瀧詠一さんと同時代に息を吸うことができて幸せでした。当分この番組の余韻に浸っていたいと思っています。尚、最終回の記述は岐阜の地方局でDJをされているマーシーさんのブログと霧の中のトニーさんのアドバイスを参照させていただきました。併せてマーシーさん、霧の中のトニーさんに感謝したいと思っています。


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