つれづれ手帳

私が日々思っていることの一部をまとめてみました。

 

キチガイと社会問題

最近、よくわけのわからない事件が起こる!

先日起きたのは2歳の少女が近所の同じ幼稚園に通うママさんに殺されたという事件だ。

マスコミでは一斉に「お受験」の問題にしている。

みなさん、ここで何も疑問に思わないのだろうか?

毎年幼稚園をお受験するのは数十万人、それぞれに妬みや嫉みもあろうが、殺されたのは一人

殺したのは一人のキチガイのおばさんである。

少女が殺されたのは「お受験」のせいではない、キチガイのせいである。

キチガイがマフラーで首をしめたから少女は死なねばならなかったのである。

けして「お受験」のせいではない。

個人的に「お受験」という制度は好きでないし、なくなればそれはそれでよいのだが、

たった一人のキチガイのせいでなくなるのは、本意ではない。

 

まず、論点のすり替えではないだろうか?

たとえばだ!「お受験」を「バレンタイン」に置き換えてみよう!

となり席のA子さんは憧れのB先輩にバレンタインのチョコを受けとってもらえたのに

私は受けとってもらえなかった!悔しいからA子を殺した!

という事件が、起きたとしよう!

この場合に誰か2月14日に好きな人にチョコを渡そうという「バレンタイン」が問題だ!

「バレンタイン」を廃止せよ!!!って言う人いる?

たしかにバレンタインなんかなくてもいいのだが、そりゃ殺す奴の問題だ!って思うでしょ?

この少女が殺された事件も同じような気がするのだが・・・

みなさんはどうですか?

 

権利と恋愛

かなり突拍子もないタイトルである。

まったく関連性のない「権利」「恋愛」という2つのキーワードからコラムを書いてみよう。

近年、フェミニズム思想なるものが流行っている。

この私だってファミニストだ!(ほんとかなぁ)

男女の権利は同等であるべきだと確信しているのだ(ほんとかなぁ)。

しかし、恋愛である!

女性は色恋に迷う。

これは統計学的にみて女性のほうが色恋に弱い(そんな統計ありません私の経験上です)。

恋愛がらみで仕事をすっぽかす人の割合が女性のほうが圧倒的に大きい!(あくまでも経験上)

なぜだろうか??

それは本能である。

男でも女でも生物が与えられる命令はただ一つ。

「種」を残せだ!!

さて、本来動物ではオスの役割は軽い。

タネを植えるだけしか能力がない。

かつては外敵から自分の所属する群れを守るという役目があったがいまではその心配はあまりない。

一方、女性の役目は種(子供)を育てることにある。

近年、男性は近代化によってこの本能的な役目から開放されたことに対し、女性はいまだに開放されてないことから、フェミニスト思想が生まれたのではないでしょうか・・・。

つまりフェミニスト思想とは男対女ではなく女性の本能(これが恋愛)と権利の戦いなのですね〜

(そうかなぁ)

本能と権利あなたはどっちを優先させます?

わたしなら本能です。

 

音楽について

最近の音楽は面白くない。

昔のほうがよかった。

こんなことを言う人間によく会う。

「松任谷由実より荒井由美だったときのほうがよかった。」

精神学的には、それは松任谷由実を聴いていた時の自分よりも荒井由美を聴いていた時の自分のほうが自分自身に満足していたためにそういう感覚になるらしいと何かの本で読んだ。

俺もそうなのかもしれない…。

学生時代に聴いていた音楽がいまだに一番いいと思っている。

たしかにあのころに自分が一番輝いていたとも思う。

何よりも自分自身に自信を持っていたと思う。

今は…むー。

だが、しかしとあえて思う。

そういう自分自身の感情を加味して聴いても今の音楽はつまらない。

あんな適当に作ったとしかおもえない曲のどこがいいのか?

歌詞だってひどいものだ。

俺が書いた詩のほうがまだマシだ…。(本当か?)

どう考えても、聴くものを馬鹿にしている。

でも、売れているのも現実だ…。

買っちまう人が悪いのか…。

グローヴやグレイなどの曲はピンクレディのヒットとは規模がひとけた違うという。

世の中が買えばそれはいい曲という事であれば俺はただのひねくれものということになるが…。

それでいいのだろうか?

君たち本当にいいのか?

 

TVについて

くだらないバラエティは教育に悪いから止めろといういう投書が新聞には多くみられる。

テレビがいじめを容認し助長させているという声も聞かれる。

周りは笑っていたが心が痛んだとも書いてあった。

これは正しいのか?

はっきしいって論点のすり替えである。

すり替えどころかテレビというものをタレントというものを理解していないおばかちゃんだ!!

彼らタレントは笑われようとしてああいう事をしているのだ。

それを仕事としお金をかせいで生活しているからだ。

しかし、いじめは違う。

いじめられている本人たちは嫌がっているのだ。

嫌がる人間をいじめるのと。

笑われたい人間を笑うのとではまったく違う。

ようするに行動が悪いのではない、それに関わる当事者達の精神性が重要なのだ。

だいたいそんなにいやなら見なければいい。

もうひとつ、新聞に投書を書く人間はやはり私と同じ少数派でしかないことを自覚してほしい。

 

ここで、本当にテレビを変えたいと思ってるお思いの人にもっとも効果的な方法を教えよう。

その前に今までで皆さんが行っている方法を検証してみよう。

1.テレビ局に苦情の電話をかける。

これは無意味です。

電話を受けるのは専門の人で制作現場には声が届かないのが現実です。

まぁ、制作現場に声が届いても100の声があれば99まではどうでもいい苦情なので、現場の人は、

なれてしまって何も感じないのも現実です。

2.新聞に投書する。

これは、馬鹿です。

本人達も効果があると思ってやってるのだろうか?

やってるんだろうなぁ、馬鹿だから。

自己満足のオナニー野郎です。

 

さて、効果的な方法です、嫌いな番組のスポンサーに投書するのです。

そして、こんな低俗な番組にスポンサーについている企業の商品は買わないと書くのです。

一通では効果ありません、いろんな人の筆跡と名前で何百通も送りましょう。

そうすれば数ヶ月後には効果が現れるかもしれません。

効果はないかもしれまさえんが、今までのやり方よりはいいでしょう。

 

テレクラについて

最近、Eメールが流行っている。

流行というか生活の一部に取り入れる人が増えたというのが正しい表現だろう。

さらにドラマにもなった。

おかげで、メールフレンド募集なんて人が増えた。

増えたというか急増中だ!

中にはそれで知り合い結婚にいたるケースも少なからずあるという。

それはそれでいい。

問題はテレクラである。

社会はテレクラに厳しい。

そこに行く男もかける女もまるで犯罪者あつかいだ…。

しかし考えてもみろ、メールで知り合うのと何が違うというのか?

知らない者同士がコミュニケーションをとれるように第三者が介在するシステムだ。

テレクラもメールフレンド募集掲示板もどっちも同じシステムだ。

言うなればお見合いも同じシステムといえる。

(知り合いのおばはんが介在したりするので面倒だけど。)

だが一方のメールでの出会いはロマンチックで一方のテレクラでの出会いは風俗だ。

この差はなんだ?

よく人はテレクラが援助交際に使われるから悪だという。

しかし援助交際は犯罪だがテレクラはシステムに過ぎない。

電話でキャッチセールスに引っかかったからといってNTTに文句いうやつはいないだろ?

テレクラと援助交際の関係と電話とキャッチセールスの関係は同じじゃないのか?

ね?

そうでしょ?

 

恋愛について

恋愛とは大きな勘違いであるとおいらは思っている。

動物は簡単だ、種を残すために必死に生まれ必死に生きて必死にやって子供作って本当に死ぬ。

それだけだ…。

なのに人間だけは違うとみんな思っているのが不思議だ。

動物は恋などしない。

異性をみて優秀な遺伝子かどうか値踏みするだけだ、優秀な遺伝子なら生き残る確立が高いからだ。

だから動物である人間だってちゃっかり異性を値踏みしている。

やっぱカッコイイ奴がもてるし、金持ちがもてる。

これは遺伝子のせいだから仕方が無い、しかし、それをみんなは恋だ愛だという。

変でしょうが、そうは思いません?

人間だって動物でしょう?

 

恋愛について〜その2〜

女性は自己肯定している男に惹かれるろいう習性があるという。

唐突な話だがこれは精神学的な本に書いてあったことである。

それをもっとも効果的に表現したのがアイドル」だという。

自己肯定という人にはわかりづらい行為をエンターティメントする行為がアイドル」ということになる。

そりゃそうだ、自分に疑問を持つような奴がアイドルとしては売れない。

自分が世界一カッコイイと思っている。(そう人に思わせる)それがアイドルという仕事だ。

ちなみにバンドもこの行為になるのだという。

だから思春期の女性はアイドルやバンドにはまるのだという。

そうかんがえるとジャニーズすごい。

ジャニーズは女性の精神的習性で商売しているのだ、絶対に間違いない事業失敗がない事業だ。

本能に訴えて商売してるなんてすごいぜぇ。

だからおいらは、それにならい女性を口説くときは自信満々で口説く。

それが効果的だからだ、でも嫌みには感じさせないようにするのが肝心だ…。

でも実は、こころはおどおどしている…。

それが本当の自分だ。

かつては本当の自分で恋愛したいと思ったものだが間違いだ…。

おどおどした自分には女性は見向きもしないのだ…。

本当の自分を愛してくれる人なんていないのだ。

だってそれは女性の習性であり本能なのだから…。

これが思春期に私が学んだことだ…。

 

結婚について

結婚とはなんでしょうか?

もともとは宗教儀式である。

なぜ儀式になったかといえば、神の前に誓うのでその誓いは破れないという考え方だ。

そう別れたくないためにそういう行為が行われるようになったのだ。

やはり根底にはどちらか(両方の場合もある)が別れたがるのがわかっているのだろう。

さて、今の結婚はどうであろうか?

今では結婚は宗教儀式ではない。

しかし披露宴という場でさらし者になるという儀式になっている。

親戚一同、友人一同から祝福され引っ込みがつかなくなるということだ。

いまは、神よりも世間のほうが効果があるからそうなったのだろう。

だが、ちょっとまて。

もう一回原点に返って考えてみよう。

そんなことしないと別れてしまうようなら最初から結婚しないほうがいいだろう?

 

嫌いな奴

こんな心の広い私でもどうしても好きになれないやつがいる。

生理的にいやというやつだ。

しかし、生理にも理由がある

最近、嫌いな奴の共通点がわかった。

自分のことを客観視できない奴が嫌いなのだ。

いや、本格的にきらいなのは、自分の都合の良いようにしか物事を解釈しない奴が嫌いなのだ。

でも、これって世の中のほとんどのひとがこれに当てはまるのも、悲しい現実である。

 

映画について

私は自称、映画好きである。

だが、タイタニックは見ていない。

周りの人たちは絶対に見ろと薦めている。

タイタニックもみないで映画好きを名乗るなともいわれた。

でも、見ない。

なぜか?

わかっているからだ。

つまらんからだ!

正確な表現ではなかった。

俺には面白いと感じられないのがわかっているのだ。

俺にとっては映画は監督との戦いなのだ。

監督は2時間の映画の中に2時間では説明できないくらいのテーマや思想を織り込んでくる。

2時間では説明できないからそのメッセージ言葉ではなく映像に隠しているのだ。

見る側はそれを必死に読み取る!

これが俺にとっての映画だ!

だからTVなんかの低俗なドラマと映画はかつては違うものだったのだ。

でも、今は違う。

映画もTVドラマも同じだ、すべての映画がそうではないが。

マスメディアで絶賛されている映画のほとんどがそういう映画だ。

なんも考えないでみれる。

それはそれで面白い。

だが、俺は映画にそんなものは求めていないのだ。

見終わったあとに疲れるような映画が俺にとっての良い映画だ。

だから最近、映画館で映画を見たあと他の観客と自分のリアクションが違う。

あからさまにだ。

映画館で「インディペンデンスデイ」を見た。

俺は途中で席を立とうと思ったが最後までみた、映画としては最悪にランクされるような映画だった。

怒りにも似た感情で俺は最後まで見て、そして席をたった。

かなり不愉快な気分だ・・・。

しかし、周りはどうだ!!

馬鹿なカップル達は口々に「おもしろかったねー」「すごかったー」などどほざいてる。

何故?

最悪じゃねぇかあんな映画・・・。

しかし俺には彼らのいう面白さは理解している。

だが映画がすごかったのではない、映像がすごかったのだ、役者が監督がすごかったのではない特殊効果さんがコンピューターグラフィッカーがすごかったのだ。

その数ヶ月後だったと思う。

映画館で「クラッシュ」という映画を見た。

デビット・クローネンバーグという難解な作品を作る監督の作品だ。

性をテーマにした作品だったため18禁になっていた。

なんかHな作品だと思ってなのか?クローネンバーグ監督の人気なのか?映画館は混んでいた。

カップルが多かった。(いやな予感がした・・・。)

性といってもかなり歪んだテーマだった。

あえて内容には触れないがなかなか深い映画だ。

ひさびさに映画を見た気がしたほど俺が映画らしい映画と思う作品だった。

心地よい感動と高揚感を覚えながら席をたった。

良い気分だった。

が、周りの馬鹿なカップル達は「つまんなかった」「わかんない」「最悪」などどほざいていた。

面白くないのも、わかんないのも、最悪と感じるのもおまえらが馬鹿だからだ。

おまえ達は口々に自分が馬鹿であることを露呈していることがわからないのか?

わかるはずもない、だって馬鹿なのだから・・・。

だから、最近は映画館で映画を見るのをやめている。

人の精神は水と同じでただただ低いところに流れていくだけだからだ・・・。

世の中が楽になればなるほど精神は堕落するのだ。

考えることを放棄しているからだ、ものごとを考えていますか?

自分は考えているという人。

人の考えに乗っかって満足していませんか?

自分の答えは自分でだしてください・・・。

 

考えるということ

前の項につづいて考えるということについて考えてみようと思う。

私はかつて何も考えていませんでした。

いうなれば馬鹿だ。

お馬鹿ちゃんだった。

ある頃からか物事を考えることが楽しいと思うようになった。

でも、考えることになれていなかったのだ、そりゃそうだ、この時までろくに物事を考えていなかったのだから。

そんな頃に漫画「ゴーマニズム宣言」に出会った。

彼(小林よしのり)の言うことは正しいと思った。

かなりはまっていたとおもう、ある日、自分の思考が停止していることに気がついた。

彼の考えに乗っかることで自分自身が考えることを放棄していたのだ。

そう思ってゴーマニズム宣言を読み返した。

正しいと感じることもあるが、間違っていると思うこともいくつかはある。

割合で言うと正しいと感じることのほうが多いが・・・。

ゴーマニズム宣言がおもしろいという人間のほとんどが思考停止に陥っていることに最近気がついた。

おそろしいとおもう。

考えるということは苦しいことだ、だからこそ答えがでたときに脳の中に快楽ホルモンが出るのだ。

だから俺は考える。

快楽ホルモンは考えることへのご褒美だ。

でも、ひとの考えにのっかってもこの物質は出るのだ出てしまうのだ、だから人は人の出した答えにすがり新しい答えを欲するようになるのだ。

これは人間の欠陥だろう。

人間だってまだ進化の途中だとくに思考は人間から本格的な進化が始まったのだまだまだ未完成なのだろう。

話をもどそう。

小林よしのりが人気なのもビートたけしが人気なのも松本人志が人気なのもそういう答えをだしてくれるからだ。

そっちのほうが楽なのだ、自分で考えなくても目からウロコが落ちてしまうからだ、目からウロコが落ちる瞬間に快楽ホルモンがでる、きもちいいのだ。

こういう人間の性質を利用した行為が洗脳だ。

洗脳はされるのではない、自らがすすんではまっていくのだ・・・。

ゴーマニズム宣言を読んでいる人、松本人志の「遺書」を読んでいる人、あなた洗脳されていませんか?

 

洗脳について

そのまま前の項のつづいていこう。

洗脳についてである。

洗脳とは自分の持つ古い価値観をぶち壊し新しい価値観を叩き込む行為である。

世の中の人は洗脳=悪というイメージをもっているがそんなことはない。

以前、友人の何人かが自己啓発セミナーなるものに行った。

暗かったり自分に自信の無かった人間が変わって帰ってきた。

それは劇的な変化だ。

まさに別人になっていたのだ。

同じ記憶を持つ別の人間になっていたのだ。

本人達は喜んでいた。

話を戻す。

洗脳には3つの行程がある。

一つは自己の価値観をぶち壊す行程

二つは新たな価値観を刷り込む行程

三つはそれを定着させる行程

この3つだ。

これによって人間を別人に変えるのだ。

コンプレックスを持っていた人間が自分に自信をもつことができるようにもなるのだ。

だから洗脳が悪なのではない。

だが問題があるのは2つめの行程にある。

新たな価値観の刷り込み・・・。

ここでオウム真理教の麻原がすごい人間だと刷り込まれればそう思い込んでしまう。

原価100円の壷を何百万円ものお金で売ってることがその人のためだと刷り込まれれば必死に壷を売り出す。

極端な話、人を殺すことがよいことだと刷り込まれれば人殺しだって作れるのだ。

実際にアメリカ軍はベトナム戦争の際にベトコンを殺すことは道徳的に問題ないと刷り込みを行い強靭な兵隊を作っていったのだ。

逆に言えば、ここに正しい道徳を刷り込めば人格者ができる。

アメリカの少年犯罪更正施設ではそういう治療を行っている。

でも、行うことは自己啓発セミナーもオウム真理教もアメリカ軍も少年犯罪者更正施設もおなじなのだ。

同じ洗脳のテキストを使っているからだ。

で、自己啓発セミナーにいった友人のはなしだ。

明るく楽しくいいやつになって帰ってきた。

ここまではとてもいいことだ、でも、俺のことをしつこく勧誘するようになった。

心から俺にセミナーに行ってほしいと思っているらしい。

人を勧誘することがすばらしいことだと刷り込まれたのだろう。

結局、彼らとの親交は無くなった。

洗脳は悪いことではない、だが気を付けたほうがいいに決まっている。

実際に行われている洗脳のほとんどが悪い目的に使われているからだ・・・。


一つ前のページへ戻る

 

メインページへ戻る